カント先生と東洋的人生観のお話の続きです。
カント先生は、「理性」に欠ける人間は、自然界の物理法則のみならず、自分の欲求に支配されている奴隷だと言いました。
この状態はもう少し穏当な表現としては、投げ出されたビリヤードのボールに例えられています。つまり、重力や運動エネルギー、空気抵抗や自分の欲求のベクトルをなぞるだけの存在ということですね。
そのような外部と内部に働く力に支配された状態を脱して自律するための方法として、東洋では行という概念が生まれた、ということまでを前回書きました。
その、行の内容について、今回は少し踏み込みたいと思います。
ビリヤードのボールを、自律した人間にするために必要な概念として、まず道(タオ)というものを我々は想定しています。または仏教では法と言います。
これは自然のあり方のようなものです。
おや、自然の法則に支配されるのでは、奴隷と同じなのでは? と思われるでしょうが、支配されるのではなく、のっとるのです。自然の法則にのっとるのと支配されるのではだいぶ違います。
自然という言葉を馬に置き換えてみましょう。
馬の動きに乗っているのと馬に支配されているのとでは大違いです。のっとっていると颯爽とした王子と言った感じですが、支配されているだと西部劇のリンチにかけられている人のようです。
タオと人が一体化することを、天人合一と言いますが、その天の道と人がつながるために重要視されているのが、性です。
動物には発情期があり、季節と性が密接につながっています。そして、季節の移り変わりとは、昼と夜の繰り返しの積み重ねです。そして昼夜の繰り返しは、いわば自然そのものの呼吸のようなものです。
人間は、自我が発達した代わりに自然の息吹と協調する感覚が衰えてしまいました。なのでいつでも発情できます。
つまり、自然の欲求と人間の意志が折半した折り合いの地点がこの性の部分にあります。
自然界が要求する性とは、生命を繁殖させて遺伝子を残してゆくという、あらゆる生命体の中核ともいえる部分です。
人間は、ある意味でそこを超越しえた存在なのです。
なので、ここをコントロールできれば自然に支配されることなく協調をしてゆく手がかりとなるわけです。
そのための手法が気功です。
我々蔡李佛拳は、チベット仏教の行の流れをくんでいるのですが、みなさんはチベットの交合仏というものをご覧になったことがありますでしょうか? 男女が性交をしている姿をかたどった仏像です。
男性には昼間を象徴する陽の気、女性には夜を象徴する陰の気が強いため、両者を合一して天地と合一しようという思想が表現されています。
その、繁殖に向かう性のエネルギーは、あふれだす命の力そのものです。
交合で調和をとるためには、性の力を健全化させなければなりません。そのための気功があります。
そして、良い子孫を残すための良い性の力を養うということは、心身を健康に保つということです。
なので、気功は健康と若さを保つ効果を持ちます。
一説に、西洋式の体育は、新陳代謝を活発にするために、細胞の入れ替わりが激しくなり、ときに老化を早めることがあるとも言います。ガンや白血病なども、その代謝の激しさがかえって劇症を呼ぶとも聞きます。
東洋式の気功では、そこを調節してゆきます。端的な負荷をかけて肉体を疲労させてゆくのではなく、内臓や体液を含めた全身の協調をはかってゆきます。
しかし、そのようにしてただ性的な健康さを維持するだけで止まってしまうわけではありません。
このままでは、まだビリヤードの玉の領域を抜け出しきってはいません。ただ運動エネルギーを長引かせているだけです。人間の本当の偉大さはこの後にあります。
性的エネルギーを支配下に置き、自然を操作できるようになったなら、今度は欲求の支配に移ることになります。
フロイト先生は、あらゆる人間の行動が、性的なエネルギーによってなされていると言っていますね。
これは、東洋思想の影響です。
つまり、性エネルギーを高く保つことができれば、今度はそのエネルギーを活用して、偉大な芸術を作ったり、誇り高い行いをするためのエネルギーとしてそれを遣うことができるのです。
この時に人はもう、ただ投げ出されたビリヤードの玉ではありません。自分の選んだ人生を歩む自律した存在です。
これが、仏教などの徳を重んじる教えが性エネルギーを土台としている理由です。
そのために、我々少林の流れを組む中国武術は、健身と自由な人生を送るための、命の行とされているのです。