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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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事象の連動

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 今月の関内練習のあと、学生さんと五行についてのお話をしました。

 私は伝統思想の師父ですが、実際は五行や八卦に関しては原理主義者ではありません。

 昔の人が考えたことなので、そのような物ごとの捉え方もあるのだろう思いながら保持はしていますが、その通りに世界が出来ていると考えたことは一度もありません。

 あくまで当時の自然科学として考えていて、それがために当然アップデートされて現代科学に至っていると認識しています。

 そうでないと、ただの信仰になってしまう。

 そして、五行や八卦というのは、道教系においては信仰なのです。

 私は少林武術の師父なので、それらを信仰を持って捉えても、伝統文化として捉えても差し支えないと思われます。

 個人的にはあくまで後者として捉えていて、信仰と言う物は持ちません。

 というのも、仏教はそもそも信仰を否定しているからです。

 そこにこそこの思想の独自性があります。

 仏教の中にも土着化して信仰となったものも沢山あるようですが、私は少林という禅の総本山の系譜におりますので「鬼に会っては鬼を切り、仏に会ってはは仏を切る」という唯識瑜伽の禅の思想をもっぱらとしています。

 個人崇拝ではなく、哲理をこそ尊ぶ。

 だからこそ、武術という自分自身を介した自然科学の学習が意味を持ちます。

 と、ここまでは非常にわかりやすいことなのですが、しかし、一つ難しいところもあるなと思いました。

 それは、因果についてです。

 仏教では、物事は原因があり、結果があると考えます。

 すなわち、科学的な裏付けが想定されていて、決して信心や呪詛などによって現実が変ったりはしないということです。

 これは普遍的であり、また鬼も仏も切るという厳しく哲学する姿勢において疑わしさのない物の見方であるように思います。

 ただ一方、五行、八卦という思想もまた、信仰であるように感じられながら、その考え方には原因と結果の連絡という物を扱っています。

 五行や八卦における複雑な物事の連環は、化学変化などの科学的な分析と根本的姿勢を同じくしているように私には思えます。

 決して、ただ祈れば報われるとか悪には報いがあるというような単純な考え方ではありません。

 やはり、ここに古代の自然科学の在り方の痕跡が感じられるのです。

 その科学的姿勢もまた、信仰に拠り所を求める人々間で長い時を経ると信仰へと変わってしまう。

 人間の精神は、いまだ古代の人々と大きくは変わっていないのかもしれません。

 目を覚まし、信仰を捨て、一つ一つ物を手放してゆくこと。

 それこそが自我の確立の道だと、私たちの哲学は教えてくれています。

 その有効性は、いまだ人類の心と言う物に必要で在り続けているように思われます。


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