私の格技の始まりは、ベスト・キッドから来ています。
それまでも特撮ヒーローものやカンフー映画で修行や武術に対して漠然とした関心は持っていたし、プロレスも好きだったのですが、本当に自分がやろうと思ったきっかけはそこでした。
一作目から主人公が換わる四作目までソフトはうちにあり、ジェイデン・スミスとジャッキー・チェンのリメイクも持っています。
一作目のノベライズも何度も読み返しました。
この作品で素晴らしいのは、一貫してカラテという物を精神性で扱っていることです。
空手は中国から来たことや、段位などと言う物は必要ないという本来の姿を忠実に表現しています。
それゆえに現代空手とは大きくスタイルが変わってしまい、三作目では直接そのことが描かれます。
社会的承認や自己顕示欲、暴力的優位性、お金などが得られる現代空手に対して、主人公の師匠であるミヤギさんが教える古い沖縄のカラテは否定のスタンスを示します。
大学生になる年頃で社会に踏み込んでゆく頃の主人公、ダニエルさんは、そこで社会に受け入れられるためのカラテの道にひとたびスライドしてしまいます。
チェーンのカラテ道場を経営する富豪のアメリカ人空手家の傘下で練習を始めたダニエルさんは、一撃で板を割り、相手を出血させて倒し、試合にも勝てると言う、賞賛、暴力、勝利という三拍子揃えたカラテを身に付けます。
これはそもそもの師匠のミヤギさんとはまったく違うスタイルです。
ミヤギさんは、「一体木が君に何をしたと言うのだ」と試割りを否定し、空手を見せびらかしたりすることもせず、道着は必要ないと言い、命や名誉を守るために戦うことはあるかもしれないが自ら試合をするための技は教えないと言います。
世間並みのカラテを求めるダニエルさんはミヤギさんの頑固な哲学にいら立ち、暫時二人は道を分かってしまうのですが、これは見ていて辛い物でした。
カラテは心であり、心は自分の根になると説いてくれる師のあるということはとてもありがたいことです。
私も今の師父に同じことを教えてもらってようやくまともに生きられるようになりました。
この80年代の作られた映画のシリーズでこれらのテーマが語られていましたが、いまの日本を振り返ると動かない物を壊したり人に見せるためだけの練習をしたり他人と勝負をするだけで武術だと名乗っている物を沢山目にします。
道場に神棚や禅画があっても、それらの心や思想について教えてくれる先生がどれだけいることでしょう。
私には、動きだけが独り歩きしてしまっているように感じられます。
さらに言うと、その動きが本物であるところはどのくらいあるのでしょう。
本物だからなんだってんだ。偉そうに言うな時代遅れが。という感想がある人も居るでしょう。
それは正統な意見です。
https://www.youtube.com/watch?v=D2FIVkNQVGE
こちらをちょっと見ていただけますでしょうか。
トーキング・ボックスを通したお経が運命75に合わせて唱えられています。
これを最初に耳にした時には「うわ」と思いました。
しかし、これを制作した人が本気で音楽造形の深い人であり、本当にお経を伝えようとして活動をしているお坊さんがこれを唱えていると聞くと少し見方が変わりました。
トーキング・ボックスの使用も、お坊さんの方からのアイディアだったそうです。
それを知ると、少し印象が変わりませんでしょうか?
本物がやってんじゃしょうがないな。というような。
これがね、見様見真似の素人が「なんまいだ~YEAH~」とやっていたら、これはサッムいですよ~。
本物と偽物の違いってのは、そういうことなのではないですかね?