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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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暴力と武・2

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 ハゲ、デブとチビはまったく違う種類の侮蔑だということを書きましたが、そこ詳しく書いてゆきますと、ハゲというのは原則、進行性の物であったりあるいは意図的になったりという時制にある現象です。

 デブも同じくで、一生の間で太ったり痩せたりする。

 しかし、チビはどうでしょう。

 これは変動性が極めて低い。

 これがどういうことかというと、ハゲやデブと言うのは他人に対してのみならず自分自身の過去や未来との間に相対性が発生しているのに対して、チビはそうではないということです。

 これに関しては、圧倒的に他者との相対の間にのみ成立する要素が大きい。

 ここで思い出したいのが、アドラー先生の「劣等性、優等性は問題ではなく、劣等生コンプレックス、優等生コンプレックスが問題である」という見解です。

 チビかどうかと言うのは多分に回りとの関係性による物です。

 周りがみんな小さい国で背が高い人が、大きい人が多い国に言ったらチビと言われるかもしれない。

 私の友達のブラジリアンは190センチあって、フィリピンの友達みんなのことをよく「や~いチビ~」と言いますが、誰もそれを本気で受け止めはしません。

 それは、フィリピンでは彼らの背丈は普通であり、あきらかに190センチのブラジリアンは地球平均で見ても大きすぎる方に属すると誰もが感じるからでしょう。

 そこには、本気の差別やコンプレックスが成立する余地が無い。

 圧倒的慎重さがあっても、コンプレックスは起きません。

 しかし、これが例えば、ずっと小柄でコンプレックスがあって、二十歳くらいで急速に背が伸びた人ならどうでしょうか?

 おそらく、人格には劣等性コンプレックスが根強く染みついていて、さらにはそれは優等性コンプレックスに転化しているのではないでしょうか。

 つまり、コンプレックスは現状の事実とは直接関係が無いのです。

 大きくても「あ、こいつ昔背が低かったな」というチビ気性の人というのはいます。

 また、まったくチビではなくとも、当人以外の全員が背が高い家族で暮らしていたらコンプレックスは育つかもしれない。

 特に、双子が居て自分より大きかったり、あるいは弟妹も自分よりずっと背が高かったらそうなっても不思議もない。

 さらにそれを助長する原因として、バスケットボールで有名な一族だったりしたら?

 これに似たこととして「自分は格闘の神の息子だ」と吹聴していた格闘家のことを思い出します。

 彼も小柄で、格闘家として知られていた一族に生まれついていました。

 自分以外はオリンピックで優秀な成績を収めていましたが、彼だけはそうではなく、プロ興行で派手派手しいパフォーマンスをすることをもっぱらにしていました。

 私はそこに少し、コンプレックスを感じる時がありました。下種の勘繰りかもしれませんが。

 後、彼は改めてオリンピックに挑戦しましたが、予選までの段階でアマチュアに怪我をさせられてその夢を断念しました。

 自ら決闘の優越性を吹聴せざるを得なかったそこには、やはり家系へのコンプレックスが存在していたのではないでしょうか。

 視点を転じると、私がさきに自分の見立てを「下種の勘繰り」と書いたように、外野にはこの、劣等性のある人にはルサンチマンがあるのではないか、という民情が発生しえます。

 日本の怪談話に出てくる怖い物が、元々は可愛い動物やか弱い女性、病気や障害、容貌コンプレックスがありそうな人であるというのは、それらに対する「可哀そうに」という思いとそれに対する「でもどうしようも出来ない」という気持ちや「自分がそうでなくてよかった」と感じてしまうことへのうしろめたさなどがないまぜになってコンプレックスを生んでいるという部分があるように思います。

 逆に、強者への不満があるときはこのコンプレックスを逆手に取って、ことさらに弱者であることを武器にしたりします。

 弱者権力です。

 これらの相対的な劣等性と優等性の変動があるためにか、物語などでも悪役の造形というのは極端な元型を持つように思います。

 ハゲでヒゲの生えたたくましい悪漢というのは、古典的なパルプ小説などによく見る物ですが、これはまさにテストステロンの強さ、男性権力的な強さを悪としてみなす劣等性してんからの造形となるのでしょう。

 逆に、小柄で老人で障害者という物も良く見ます。

 車いすい乗って何か物々しげな杖など持っていたりする。

 そのような黒幕を見ると「こいつはすごいねじ曲がったコンプレックスを持ってるに違いない。どんな容赦のない残酷なことをしてきてもおかしくない」と言った怖れを感じます。

 また、大変に美しく物腰も麗しく上流階級的であるという悪役に関しては「こういう奴に人間の気持ちなんてわかるもんか。自分たちのことは見下してなにも斟酌しないだろう」という冷酷さを感じます。

 ナチス・ドイツがこの感情を国内においては有効に用い、外部に関しては永遠に通用しうる悪のヴィジュアルとして印象付けているのは間違いありません。

 つまり、人間の優等性、劣等性とは相対的な物であり、あって当たり前なのですが、そこにはコンプレックスを惹きつける物があり、そのコンプレックスこそが人格にとって重大な問題である、とういアドラー理論です。

 そしてこれらのことは、すべて社会が弱者のための物であるという土台の上に成立しているように私は思います。

 

 

                                                                           つづく

 

 

 

 

 


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