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感覚 認識 自覚

 最近また、遠方より来てくださる方がいらっしゃいます。

 その方に、基本の一つになる弾勁という物をお伝えしました。

 この名前は中国武術ではよく聞くものですが、蔡李佛におけるこれは他の物とはまったく違うしどこが弾勁なのかもいまひとつ掴みづらいようなところがあります。

 もしかしたら、傳系上のどこかで名前が間違って伝わったのではないかとさえ思うところがあります。

 実際、弾勁という物をして練功されるのは弾勁という勁ではなくて重勁という勁だったりします。

 そして、その勁のみならずもっと根本的な体の作り替えを行うところに基本功としての徳があります。

 これは結構強力に体を作り替える物で、ともすればかなり痛い。

 初めてやったときは痛さに悶絶したし、本当にこんなに痛くて大丈夫なのかと師父に訊いてしまったくらいです。

 なお、答えは「もう慣れちゃったからあんまり感じない」でした。

 この練功の痛みは気血の劇的な運用に伴うものです。

 毛細血管が拡張されて血行が活性化されます。

 これによって、謝大師の言う「脈動の勁」を強化してゆくところが始まるのですが、もう一つ、神経系の物としては感覚を開くという物の一歩となります。

 感覚によって勁を導くという構造を教えてくれます。

 意で気を導き、気で勁を導くという奴です。

 そして、勁によって識(認識能力)を導くところにまでもって行きたいのですが、そのためにも意で気を導くということが必要です。

 すなわち、これは物事を感じるということの訓練でもあります。

 物事を、いかに感じるか。

 それこそが大乗の武術としては非常に大切な物となります。

 少林武術の中核は禅であるので、定禅の始まりとして、自分の体の内側と、外にある世界を感じてゆくのです。

 はじめはそのために、痛いくらいの強い感覚が用いられているという次第だと解釈しています。

 とはいえ、痛いのですが同時に気持ちがいい。

 気血が活性化しているのでからそれもそのはず。

 私もそれで魅了されてしまい、一発で短勁の拳法からこの拳に道を変えてしまったくらいです。

 今日お伝えした方から、同じく「気持ちいい」という言葉が出たときには非常に嬉しく思いました。

 その気持ちよさに導かれることが、身体との対話、協調の始まりとなります。

 身体の求める気持ちよさに敏感になり、エゴの持つ不健康な快からそちらにシフトする感性を育んでゆくことが、心身の健康を作り、気持ちよく生きるための中核となります。

 それに基づいて、自らの本当に求める気持ちの良い生き方を得てゆくことを、自覚と呼ぶのだと思っています。


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