戚継光将軍は倭寇について「刀を頭上できらめかせている。これを胡蝶の陣と呼ぶ」と書いてあります。
これだけでは、なぜそれが胡蝶なのかはよくわかりません。
その後、きらめかせて威嚇しておいて右に左に剽悍に飛び回って距離を詰めてくるので、槍などの官軍の常備兵器はすぐに手元まで切り込まれてしまう、と書いてありますので、この、ひらひらと左右に飛び回って捉えがたい様が蝶に例えられたのかとは納得させられます。
しかし、一般に引用されるこの部分とは別に、倭寇は両刀を用いるとも書いてあります。
そして頭上に構えているところを槍などにて突きこむと下段に変化して距離を詰めてくるので、螻蛄首を切り落とされてしまうとあります。
ここで書かれている「両刀」という証言から省みれば、上述の胡蝶の陣がいかにも蝶らしく思えてきます。
実際、倭寇を描いた図絵などを見ると、両手に長刀を持っていることが確認できます。
となると、ここで疑問が浮かんできます。
それは、中華ではすでに刀術が廃れているために倭寇の刀術に対応できる術がないので敵の技術を盗んで調練を施したという戚家軍の刀術、倭刀術や後に苗刀術と呼ばれるものが、単刀の術であると言うことです。
これだけ倭寇は双刀が手ごわいと言っているのに、それを参考にした刀術が単刀。
倭寇対策の必殺技、鴛鴦陣における刀の持ち手は、確かに刀を二つ持ってはいるのですが、それは左手に構えた盾の中に隠し持っていて相手が迫ってきたら不意打ちに投げるための飛刀なので、スタンダードな双刀とはイメージが違います。
この戚家軍の倭刀術というのは、物干しざおのような長大な刀を持ちうるもので、軍備の方法として敵を発見した時には二人ペアになって互いの刀を抜くようになっているというくらいのものです。つまり一人では抜けないくらい長い。
この、長大な単刀を持ちいる術と双刀の術とは似ても似つかない。
長大な倭刀術のルーツは、倭寇より奪取した剣術の伝書にあり、それは影流の伝書であると言います。
そして、その影流の伝書にも双刀の術は見られないようです。
これはどういうことかというなら、恐らくは倭寇の中に、真倭(本当の日本人)は一割程度、多くても三割程度だということが答えなのでしょう。
つまり、影流の伝書を所持していたような日本の剣士はその一割の内の一人にすぎず、胡蝶の陣を組むような人数はいなかった。
そもそもこの頃の倭寇というのはポルトガル、スペイン、中国などの人からなる海賊連合軍です。それを単に習慣として倭寇と呼んでいたにすぎない。
また、倭寇側が影流の剣士を教練として団体練習が行われていたということでもないのでしょう。
西洋剣術や各種刀術など自分たちが身に着けた武技を各自持ち寄っていたと言うのが胡蝶の陣の実態なのではないでしょうか。
この当時、日本刀は世界的に普及していた日本の最大の輸出品なので、倭寇はもちろん、官軍でも用いていました。
その日本刀を用いて各自の海賊剣術を使っていた、ということだと思われます。
我々の胡蝶双刀に関しては、武備誌にある胡蝶の陣にインスパイアして作られたものか、あるいは元々海賊武術として伝わっていた物なのかのどちらかなのではないでしょうか。
南船北馬の言葉通り、海賊衆の間に伝わっていた南派武術のうまみがここにぎっしり詰まっているように感じられます。
両刀を巧みに翻して換手法のようにしながら相手に入り込んで行ったり、低い姿勢から内側に入り込んでゆく姿などは、明確にフィリピン武術などに通じる物があります。
このような動きをして往時は長柄の兵器に切り込んでいったのだなと思うと、その用法が想像しやすい。
もちろん、左右に飛び回りもするので、そこらはちょっと疲れます。
つづく