ここまで書いてきたことをまとめてみましょう。
中国武術は、明代で一度廃れていると言います。
その前、元代を探ると、そこで巨大な攻城兵器と火器、騎射で戦争を行う時代があります。
これにより、元の時代にモンゴル男児のたしなみである、乗馬と弓とブフがその時代の武術の基礎となったというアップデートが起きたものではないかと思われます。
ブフとはいわゆるモンゴル相撲のことですが、これはモンゴルでは武術ではないと言われています。
実用の武術というより、体育であるようです。
この、体育の発想と言うのは中国武術においても非常に重要な物です。なにせ戚継光将軍が拳術は体育だという趣旨のことを言っているくらいですし。
そのため、このブフや騎馬を土台とした要素が中国武術でもフィーチャーされたものであろうと私は思っています。
実際に、騎乗での戦闘法が拳術に取り入れられたのだという技も現存しているそうですし、またブフは摔角という名で実用の中国武術として編纂されもしました。
この摔角から現代中国武術の散打が出来ているくらいの物で、競技としてのみならず非常に実践的な武術として行われてきた歴史があります。
この辺りは騎馬による遊撃戦を主とするモンゴル人と中原の人々の違いが感じられて面白いところです。
しかし、この、モンゴルによるアップデートの影響をあまり受けなかったのが南派武術なのではないかと言うのが私の見立てです。
大山倍達総裁が再三、カラテのルーツはモンゴル拳法であると繰り返し言っていたのはこのことでしょう。
南船北馬という言葉はもともと武術とは関係の無いことわざだったそうですが、武術の世界では北派は馬を土台とした武術を行い、南派は船を前提とした武術をしているという意味で使われています。
北馬の部分は、まさにいま書いたような歴史的経緯を意味して居るのでしょう。
ではなぜ、南はその馬の武術の概念に染まらなかったのか。
船の上は狭いので手足が大きく振り回せないから、などと皮相的なことが言われてきたこともあるようですが、もっと歴史に目を向けてみたいと思います。
これはつまり、モンゴルの影響が北部を中心としていて南部への影響が弱かったことがまず大前提として考えられるべきです。
元が朝廷を奪取した時代、そもそもは同じ騎馬民族の金が中原を支配していました。
漢民族の王朝である宗は攻め落とされて都を奪われ、南部に逃げて南宗朝として存続しています。
その状態でモンゴル、つまり元は金を討ってその国土を乗っ取ったので、南宗朝の土地には金の時代も含めて騎馬民族文化の進出が薄い。
金を討った後も元が南部にあまり攻め込まなかったのは、河水地帯では彼らの得意な騎馬戦術があまり役立たなかったからだと言われています。
金も元も騎馬民族は水軍という物を持っていないので勝負ができないのです。
このため、消去法的に南部には海戦武術が残ってゆくのは必然であるように思います。
さらに面白いのが、モンゴルには「春と夏に泳いだ者は死刑」という法律があったということです。
ちなみに秋冬にはモンゴルの川は凍結しますので泳ぐことはできません。
つまり、彼らはそもそも泳ぐことが出来なかったのです。
なぜこのような法律があったのかというと、宗教上の理由があります。
彼らは人が水に入ると雷を呼ぶという信仰があったのだと言います。
遮蔽物の薄い平原で雷が来ると、遊牧民はなすすべがありません。
そのため、水に入ることを禁忌としていたのです。
この風習は20世紀まで続いていて、日本人がモンゴルに行くと川ではいままでまったく釣られたことのないような魚がうようよおり、入れ食いだったという話を聞いたことがあります。
ひどい文化破壊だ。
とまれ、この水に入れないというモンゴル人の土俗的生理によって、彼らは南方戦線を切り開くのに大変難儀しました。
このために、南宗以降南方において古い中国武術の痕跡ないし直系が残りやすかったのではないか言うのが私の推測です。
それが大航海時代以降、南シナ海の海賊武術の基本として歴史の中に渡って継承されてきたのであろうかと思われる次第です。
我々鴻勝蔡李佛拳は海賊との海戦を通して活用され、その後に太平天国の乱で用いられました。
その折には、内地での会戦に用いられたことで、あるいは改編もあったことかと思われます。
しかし、この滾戦双刀という名前には、水を表すさんずいが入った滾という字が用いられています。
滾るには「ゴロゴロ転がる」という意味の他に「水が逆巻いて激しく流れる」という意味があるそうです。
これこそまさに、海戦武術の痕跡を留めた命名であるのではないでしょうか。
そもそもの倭寇の始まりというのは、元寇への報復でした。
漢土においてモンゴルによる武術の改編が行われているころに、その報復の倭寇が彼らの苦手とする水軍刀術で逆に攻め寄せていった結果が、この海賊武術だったと思うと、そこに歴史的な武術の変遷における必然を見るような思いがあります。