仏教の行はヨガから来ました。
これは単なるストレッチや現代式のフィットネスのことではなく、瞑想法のことです。
お釈迦さまは最初、ヨガを学んで悟りに至ろうとしたのですが、この方法には一つ欠点がありました。
それは、瞑想をしている間は迷妄からくる苦しみから離れて静かな心に至れるのですが、止めるとそれが解除されてしまうということです。
そこで他の方法でのアプローチを模索することになりました。
そのために苦行をしたりしたのですが、結局のところはそこではなかったとして瞑想に戻り、そこに哲学や律法を加えることでブッダの思想が作られたと言われています。
その経緯の上で語られているのが、人を賎しくし、心を貧しくさせる商人の生き方ではなく、求道の生き方をするのが良い、ということだそうです。
道を求める生き方をしようとすれば、人は自ずと自らの生き方を省みます。
省みて、是非の裁定をし、向上を続けてゆきます。
この生き方こそが幻想から目を覚まして心の満たされる生き方だと言うのです。
ものすごく端的な引用をしますと、それは死に際に「良い人生だったな」と言える生き方になるということだと言います。
もし、財物や身分に囚われた生き方をしていても、それらは死に際には何の役にも立たないし持ってゆくこともできない。
そうなると死はただの喪失であり、恐れるばかりのこととなります。
お釈迦さまは世の苦しみを、生老病死の四つだと見ましたが、求道により心満たされていたならば、この死の折にも、心豊かで生に納得をすることが出来るというのです。
これは他の三つ、生老病に関しても同じだと言います。
五官を通じたあらゆる苦しみを乗り越えるただ一つの物が、自分自身の生き方に伴った心だということでしょう。
どうも、西洋の人の中にはこのような考えを聴くと、肉体は苦しみの元で精神こそが尊いのだと思われるかたが多いようです。
これはおそらく、キリスト教がそのような感受性で敷衍しているからでしょう。
しかし、仏教では心のために肉体を重視します。
というのも、もしただ心だけで人が存在していたなら、沸き上がる思いのままに現在過去未来のあらゆる場所に心は至ってしまい、さまよい続けるからです。
肉体はいま自分が存在している場所にに明確に心を繋いでくれるクサビのようなものです。
肉体をおろそかにし、心だけに囚われると幻想にはまりこんでしまいます。
その幻想を否定する確かな土台として肉体は重要です。
そのために、心と身体を一つの物として練ってゆきます。
それが行というものです。
肉体には、精神を介さないで判断し、対処する力が備わっています。
消化や呼吸のことを考えればあたりまえのことなのですが、それらのみならずもっと精密なことも出来るのだそうです。
魚の活け造りを作った時に、頭と背骨の部分を流水に入れるとそれが泳ぐというパフォーマンスをみせる料理人が居ますが、あれ、実は別に包丁さばきに関係なく、魚の造詣そのものがそう出来ているそうなのですね。
普通に打ち上げられている魚の死体などを流しても、同じ動きをするのだそうです。
魚の肉体そのものがそのような機能を果たすために良く作られている訳です。
人間の肉体という物も、本来はそのような必要な機能を自動的に満たすように作られているはずです。
しかし、現代人は社会という幻想の中で頭でっかちに生きるために、その本来の生命体としての機能を抑えつけ、見失ってしまっています。
それらを取り戻し、本来の生き方を見直すために、肉体の行は作られてきました。
現在、20代から60代までにわたって引きこもりの人達が居ると言います。
60代の人達は前にあげたカルアミルクの人達のいまの姿でしょうか。
また、20代、30代はカルアミルクの子供たち世代でしょうか。
社会と言う幻想が人を圧迫し、苦しめるばかりであるべくように活かさないようになってしまっているなら、ひきこもりのような形で社会からの離脱を望む人が溢れるのは当然のことでしょう。
また、社会に身を置こうと苦労している人達の中には、それゆえに精神を病み、果ては自殺に至る人が尋常な数ではなく存在します。
すでに日本社会が堅く保持している幻想の有効性はとっくに切れています。
我々には新しい社会観が必要です。
つづく