前回までで、平清盛が並み居るライバルたちを陥れて日本初の武家権力への道を登ったところまでを書きました。
この後、源氏による鎌倉幕府が正式に成立して以降、明治の御一新まで武士が権力を握り、公卿は玉という状態が続くことになります。
江戸の初めには徳川によって改めて「天皇家は学問の司であり、芸術の家である」と念を押されて実務より遠くにあることが念を押されます。
その長きに渡るいわば現世との隔絶の歴史が、幕末の岩倉具視らの怨念になっていたという話も聴きます。
ここで目を向けたいのが、その怨霊という概念です。
そもが天皇家というのは文化人類学におけるシャーマン・キングという物です。
これは、天地の怒りを鎮め、恵みを寿ぎ、自然の流れが幸いであるように祀るという古代社会に共通の役職です。
対して武家政権と言うのは、現在でも理解のしやすい軍事政権であり、現世的な力そのものによって成り立っています。
徳川で「天皇家は学問と芸術をしていればよい」と言って封じ込めに入ったのには、そのような司祭や祈祷と言った物が学問や芸術であって実務ではないという見解があったためです。
確かに、平安時代の行動様式を見ると方たがえのような物が生きており、病の折には医者ではなく加持祈祷を用い、国難があれば資金を費やす先は実際に役立つ食べ物や衣料品ではなく大仏の建造と言ったようなことになっています。
これらから、当時のこの国の最先端の見識がこのようなシャーマニズムを現実の物として扱っていたということなのだと見取ることができます。
つまり、武家政権の発生というのは、魔法や祈りが現実だと感じられていた時代から物質主義の時代へのシフトだと見なせるのではないでしょうか。
これは現代日本社会の物質主義を省みる上で重要な課題であるように思えます。
物質主義社会への扉を開いた清盛自身のエピソードは、未だ伝説や怪異に飾られています。
最盛期の彼の元に、それまでに滅ぼしてきた人々の怨霊が現れて庭に満ちたというお話は、妖怪目比べとして知られています。
また、その後の死においては彼は牛頭鬼の引く牛車に連れ去られて、無間地獄に落とされたとも言います。
ここまで描いてきた平安の霊的政治観においては、これまでに書いてきた崇徳上皇や鎮西八郎為朝と言った人々も歴史に残る逸話を持っています。
次回はそのことをお話いたしましょう。
つづく