これ、ちょっと前の記事と繋がる入りになりますけどね、ちゃんと自分を持ってこれなかった人、あるいは自分の土台や芯を持ってこれなかった人達についてのお話をね、します。
自分の土台とか、芯とかって、私も二十歳すぎるまでは無かった。
二十代半ばになって、何も持っていない自分と向き合わないといけないことになってから、初めて自分の中にある自分が大切にしているものを掘り下げる作業に入りました。
老荘思想を学ぶことになったのはさらに十年後です。
そこから伝統思想の継承者になっていったというのが私の場合の過程でした。
私の場合は、どん底からスタートしたので、社会的成功が一定達成されてから自分を振り返るという経験をしていないのですね。
前の記事で書いた芸人さんのように、お笑いをする人たちの中で、突然書家になってしまう人や、ヨガ行者になってしまう人と言うのは昔からいました。
それはやっぱり、「奇異」なことをして人を笑わせるためには、まともが何かを知っていないといけないからだと思うのですね。
だから、最もまともというものに対して長い歴史があり、その土台を作ってきた伝統の世界に入るということなのではないのかと思うのです。
元々、伝統文化というのはそのように人の心を作るための物だったので、徳効があったのではないかと思われます。
その効果を恐れて、民衆を自分たちの思うように洗脳し尽くしたいと思って行われたのが文化大革命でした。
伝統文化を取り締まり、弾圧して継承者を処刑した。
文字通り、文化を革命したのですね。
経済的発展が目的です。
まったく経緯は違うのですが、日本でもそっくり同じことが行われたように思います。
人間の心を支える土台を奪い、国が経済的発展をするために社会をデザインした。
もちろん、きっかけとしては西洋社会における資本主義の巨大な発展という物が共通していますので、地理的に環境が近い日本と中国で共通性の高い結果になるというのは頷けるものです。
こう考えると、日本人が自分で精神を取り戻すことは、ある意味でより厳しいような気もしてきます。
強制力ではなく吸引力によって精神の空白化が進んだためです。
例えていうなら、無理やり拘束して牢獄に閉じ込めた人間は脱獄をしますが、寒さや飢えから逃れるために自ら入ってきた人は出てゆかない。
戦後日本人は自分たちが便利で楽になるために心を置き去りにしてきたので、その重要性や取り返し方という物が初手から分かっていないのではないか、というのが私の見立てです。
ここで、老子の話に向かいたいと思います。
つづく