最近嬉しいのは、オンラインでの生徒さんがたが練習した内容を気持ちよいと喜んでくれることです。
武術を目的としている人も、気功を重視している人も、ともに内功を積んでゆくことで身体が換わってゆき、気持ちよさを感じてくれている。
これは重要な入口です。
昔ね、ある先生、というか自分で勝手に先生になっちゃった人に「師父の言ってることは観念的すぎてわからない」って言われたことがあったんですね。
これがね、ちゃんと学んでない人のいかにもな言葉だなあと思いました。
惜しいところまで行ってるけど、そこの先に進む扉を開ける方法を師から与えられていない。
実技から観念に至り、そこが一つの物である、というのが有名な「色即是空 空即是色」という言葉の意味ですね。
つまり、色=物質とは空=観念的な真理であるという両者のつながりを語っている訳です。
中国武術の行はすなわち哲理であるという、こんなにも有名な根本原則をきちんと学べていない人が、自称先生になってしまうとそういう、奥の次元に行くのが難しい。
私は師父に学び、世界のフィールド・ワークに出て、それから伝系の上位に学びに留学し、そしていまも定期的に実行と教本の洗い出しを続けています。
そのような、終わりなき、繰り返しで舐めつくすかのような学問の日々こそが、伝統継承者という立場の人間の生き方であるように思っています。
ちょうどいま、ロックダウン二か月目のマニラの同門のマスターから連絡があって「毎日暇じゃないか、Bro?」と言う会話になったのですが、私はまだそう感じてはないのですね。
結局無限に勉強はできますので。
海外の文書や動画を読み、なんなら在中のマスターたちに学びたければ、そちらの人々の言語を学ぶところからも始められますし、我々にはそれだけの機材があるわけです。
やろうと思えば暇ではないですよね。
スペイン語も広東語も相当時間をかけて学ぶことができます。
私はまだまだその段階にはいっていないですが、それでも充分学びは満ちています。
例えば先日、大師の書かれた教本を読んでいたところ「目の前にある徳の光を眉間から吸収するつもりになって……」という描写を見つけました。
これ、おそらくは金華のことなのではないかと気が付きました。
金華というのは、気功をしていると一定の頃から現れる光のことです。
これ、私は眉間の中にある松果体という光を感じる器官が内功で活性化しているからだろうと思っているのですが、その活用を表現しているのだと思うのですね。
教本はその段階からは書かれていなくて、もっと初歩の人がやるときに「そのようにイメージをして」と言った態を取っているのですが、これは功を積んでから読み返すとまんまただの現実なのですね。
このように、段階が進んでからも繰り返し内容が濃度を増すと言う構造が中国の気功や武術にはあります。
表層の動きのことだけしか見えていないとその先を進むことは難しい。
正しい段階を積まないと、本当の学問を積むことは出来ないのではないかと思い続けています。
だからね、外出に制限があったとしても、退屈するとは限らないのですよね。
幸いなことです。