我々の気功の思想から見た社会についてのお話を、本日はしたいと思います。
さてそこでは、人間というのは、生まれてくるときに父母からもらった命である先天の気と、へその緒から分かれて自分で栄養や酸素、光を吸収して精製するようになった後天の気によって生きていると考えられています。
先天の気は腎臓に繋がった命門という場所に蓄えられていると考えられています。
後天の気は、各臓器から吸収されます。
そして、内臓はまた別の物も宿らせていると考えられています。
それが感情です。
良い物では穏やかさや寛容さなどの感情が生まれるのですが、そこは陰陽思想です。
それらと対になっている怯えや不安なども感情も同じく存在しています。
さらに陰陽思想で、例えば喜びという感情にしても、薄く受け止めると良い物のようにも思えるのですが、喜びが過剰だとギャンブルでの高揚やアルコールでの快楽、また恋愛などの刺激に囚われやすい。
そうなると、自分を制御できない中毒者となってしまいます。
逆に、不安や悲しみという一見印象の悪そうな感情も、対策をして備えるという賢明さに繋がったり、人をいたわる慈悲になったりします。
それらのバランスを取り、どのような人間になるのかを差配するのが、哲学の部分と確立された自己ということになる。
そして、それに加えての臓器そのものの健全さです。
特定の感情が滞って執着になったりとか、あるいはまったく麻痺して感じなかったりということが無いよう、健全に感じて次に転化するというサイクルを保持する健全さが大切となります。
そのために、気功を行うのですね。
そもそも、東洋医学では身体を走る経脈に臓器の名前がついています。
これが、それら内臓の力が命の力そのものであり、人間の生命活動にとても大切な物であることを顕しています。
なので、鍼や推拿、および気功ではこれらに関与してゆくことになるわけです。
そのようなサイクルの内臓と人間を一つの独立した小宇宙とみなすのですが、それら小宇宙が集まって小宇宙群を形成します。
その一つが社会ですね。
世の中で起きる多くの問題は「感情の不法投棄」による、というのが我々の謝大師の考えです。
残酷さや怒り、嫌悪感などの攻撃的な感情を、多くの人々がルール無用で町に巻き散らかしています。
それらによって傷つけられた悲しみが、また多くの悲しみを生み出すこともたくさんあります。
自ら命を絶った人や、正気を失って自らを捨ててしまった人たちに私たちは悲しみを引き渡されます。
いまの世の中を見渡した時、まさにそれらがあちこちに見られることかと思います。
悪感情がさらに悪感情を引き出し、雪だるま式に大きくなってゆく。
これが私たちの社会観です。
そのために、一体どのようにすればいいのでしょうか。
一人一人が、自分の感情に責任をもって管理をし、他人にポイ捨てしないことでしょう。
とはいえ、いつもここに書いているように、我々現代日本人はそのように自分の心を管理できるように精神が成熟していません。
国がそういうことを求めていなかったので、精神の教育が行き届かない制度になっています。
世の中を見渡したときに、成熟した大人や老成した年長者が少ないのはそういう理由です。
因数分解や元素記号なんて一過性でテストのために覚えなくていいし、逆上がりなんてできなくていいから、他人に嫌がらせをしてはいけませんということとか自分の怒りをコントロールする方法とかを訓練してくれた方がさぞ世の中の役にたったのではないでしょうか。
かくして、荒れ放題このうえないこの世の中ですが、それらを哲学としての論理教育ではなく、物理的なエクササイズとして対策するのが我々の気功です。
悪感情を溜めない体にすれば、やたらにまき散らすこともない。
社会の美化が進むという次第です。
というわけで、自己向上の意思と、そのための具体的なメソッドである気功によって、この社会を良くしてゆこうというのが、我々の大師のコンセプトなのです。