日常の些細なことに沢山心が動く。
これはとても良いことのようにも思えます。
子供たちの感受性を観ていると、なんて新鮮に世界を感じているのだろうと驚かされます。
しかし、そのようなある種の童しさは、実は本人のためにならないことがえてして起きえます。
内側に沸いた存在していないことに対する疑念や不安などに、なすすべもなく流されてしまって操られてしまう。
自分という主体があまりに希薄です。
様々な出来事や湧いてくる感情の中から、自分に望ましいものを取捨選択して自分の血肉に変えてゆくことが選択的な成長であると思うのですが、流されっぱなしではそれが出来ません。
いつまでも、言って戻っての繰り返しでは差し引き0の状態のままです。
どころか、消耗していくのでむしろマイナスになっていってしまいます。
人間というのは、成長期を過ぎれば生きているだけで消耗してゆく存在だと気功では考えます。
それが限界に達するとすなわち寿命です。
死という無への回帰までの間に、どれだけ自分を育めるかということが人にとっての救済であり、生の意味なのではないでしょうか。
まぁ、意味などなくてもいいのですけれども。
いいのですけれども、一人がってにうちに沸いた不安や疑念に振り回されて、しなくていい愚行をして得たものを台無しにする生き方はそれほど幸せには見えない……。
精というのは、生命のサイクルを継続させる方向の力ですので、すなわち「成長の力」です。
人間の肉体、精神を作り出して天寿を送らせるまでに作る、ものすごい成長の元となっています。
この力がその爆発的な成長に大量に消費されている子供の間は、自分が固まってなくても当然のことです。
固まっていないことも含めて、自分を育んでゆくための多様性の一つとして飲み込むことができます。
肉体的な成長が止まったのちは、体内の精は子孫を作るために体内に温存するのですが、ここで問題が生じます。
自分のためにだけ使っていた精の力を、今度は次の命を作るために使って消費してゆかなければならなくなるからです。
つづく