さて、マニラの歴史なのですが、アキラ先輩の動画をご覧いただけたらお分かりいただけたと思います。
以上。
という訳にはいかないので私なりにかみ砕きましょう。
まず、スペインの侵略以来、フィリピンと言う国が現れました。
もともとまったく別の島と民族だったのが、支配者が勝手に国境を作って囲ってフィリピン人と名付けたことによって生まれたのですね。
それが後に、スペインからアメリカに譲渡されます。
ここでフィリピン人は自治を求めるのですが拒絶され、抵抗に出ます。
米比戦争と呼ばれる独立戦争が起きて、六十万人のフィリピン人が殺されたと言います。
この時が、おそらくは最初の直系のゲリラ戦のエスクリマが始まった時代だと思われます。
その後、第二次大戦期になって日本が英米からアジアの民族を開放するという名目で、マニラのアメリカ軍と交戦、米軍をオーストラリアにまで撤退させてフィリピンを獲得します。
しかし、時はもう1942年、敗戦まで間もなく、日本軍が弱体化してきた1944年にはアメリカによってバックアップを受けた抗日ゲリラが大量投入されます。
この時が、マニラにおいて最大のゲリラ戦が行われた時代だと言われています。
というのも、マニラ市内において親米派と親日派の両者に分かれたフィリピン人同士が、十万人単位でゲリラ戦をしていたからです。
この時の悲惨な市街戦については、美術館や博物館でいまでも語り継がれています。
本当に、日本人である私がそれらの場所を歩いて悲惨な戦闘の記憶を描いた作品の前を通るのは非常につらい物でした。
1945年の日本敗戦の後は、国内でのイニシアチブをめぐって親米派と共産ゲリラとの戦いが続きます。
つい先日のニュースでも、マニラで警官隊と共産ゲリラの銃撃戦が報道されました。
ドゥテルテ大統領が「山に住んでる悪党ども」と呼んだ彼らは、いまだに潜伏して活動をしています。
潜伏と言うのも、もちろんアメリカをバックに持った資本主義陣営に敗北したからなのですが、それというのも第二次大戦終戦後の歴史があるからです。
60年代半ば、冷戦のただなかでフィリピンではアメリカの資本主義を推し進めるべくマルコス政権が樹立しました。
これはもちろん、冷戦上でのアメリカの手駒、傀儡政権のはずだったのですが、このマルコス大統領というのがある種の乱世の漢というか物凄いヤツで、経歴などはドゥテルテ大統領にも似ています。
大学時代に人を殺して投獄されて、自分で獄中で勉強して弁護士となり、自分を弁護して釈放されるという離れ業をやってのけました。
そんな彼が大統領になったのは、スペイン時代から続いている貴族たちによる荘園制を解体させることが目的だったと見られています。
結局、この実質的な貴族制による貧富の差が、国の体制自体を硬直させてしまっている。
そのために、インチキ選挙による20年にもわたる独裁を敷くのですが、そこに現れたのがニノイ・アキノ氏です。
マニラの国際空港に名を冠しているこの人物は、富豪の家庭の御曹司で、学生時代からワンダー・ボーイと呼ばれた秀才でした。
17歳から新聞記者として世論に影響を及ぼしていたほどの選良です。
23歳で大統領から声を掛けられて大統領補佐官となり、コラソン・アキノ夫人と結婚します。
このコラソン婦人、実は大財閥の令嬢です。
どのくらい凄い財閥かというと、あの、フィリピンの国宝、サンミゲル・ビールの経営者だったくらいです(なお、現在は売却されており日本のキリンが持っています)。
彼女の一族が持つ、中に町が一つに村が二つ、郵便局や工場のある領地でアキノ氏は暮らします。そこで庶民の生活の貧しさを知ることになります。
工場と言うのはもちろん、砂糖工場です。
農園で作ったサトウキビを精製する場所です。
もちろん、サトウキビというのはスペイン統治時代に政策として行われていた支配のための手段です。
皮肉なことに、アキノ氏はアメリカ式の民主主義をせき止めている独裁者を排斥しようとしていたのですが、その後ろ盾は旧来の貴族たちだったのです。
つまり、国内はアメリカをバックにしつつその理念に反して独裁を貪るマルコス派と、それを打倒しようとする共産ゲリラ、および、民主主義を推すものの実態は貴族という派の三つ巴のようなそれどころでは済まないような非常に複雑な情勢だったようです。
フィリピンにおいて、しばしば共産ゲリラが英雄視されるのは、この時代があったためだと思われます。
民衆にとって、搾取をしない、金持ちではない派はそれしかなかった。
とはいえ、発信力があり、カリスマ的な力があったのはアキノ氏です。
マルコスは彼を「病気の手術」という名義でアメリカに送ってしまいます。
これは実際には態の良い国外追放で、この時代にはしばしば行われていたと言います。
モダン・アーニスの開祖、レミー・プレサス先生がアメリカで後半生を送ったのもこれが理由だそうです。
アメリカ送りになったアキノ氏は、そのまま最後通告を受けて手術を終えたのちもアメリカに移住してしまえばよかったものの、アメリカの影響力の薄い国である中国の航空会社の飛行機に乗ってフィリピンに帰国してしまいます。
この段階で、自分は戻れば暗殺されるとわかっていたようで、同行している家族には飛行機から降りるなと指示したり、すぐに終わると伝えていたりしたそうです。
その通り、空港内で職員に扮した刺客によって、アキノ氏は暗殺されました。
フィリピン政府はこれを、まったく無関係な共産ゲリラの仕業だと公示しました。
この暗殺の現場には日本の報道陣が同行していました。
彼らは一部始終を撮影しており、裁判でもそのスタッフが証言をしています。
彼らが作った番組は日本のTBSで放送され、そのビデオがフィリピンでも出回りました。
マルコス体制が隠そうとしていた様がそれによって知れ渡り、革命のきっかけとなりました。
また、この事件によってアメリカ政府がマルコスの実態に目を向けざるを得なくなり、CIAによる内政干渉が始まります。
その政情不安の中でパフォーマンスのための選挙が始まりましたが、これによって不正選挙の実態が露呈してしまいます。
ここから、民衆によるデモが起きます。
その状態で、国防相と副参謀長の二人が、マルコス大統領に対して反旗を声明し、キャンプ・アギナルドという軍事基地に立てこもります。
軍事力によって権力を維持してきたマルコス大統領にとっては由々しき事態です。早速戦車隊を派遣して基地を制圧させようとします。
すると、その部隊から籠城した軍人たちを守ろうと、マニラ市民百万人が人の盾としてエドサ通りに集まってきます。
私がフィリピンに修行に行くとき、必ずこの件があったケソン市のノース・エドサという駅の近くに宿を取るのですが、そのエドサ通りです。
そこを市民たちがふさぎ、戦車隊と直面することになりました。
市民たちの最前列には、修道女や神学校の生徒たちが並んでいたと言います。
これね、もし自分が最新鋭の武力を持っていて、最高権力者の指令で動いているっていう武力と権力の後ろ盾を兼ね備えた状態の戦車隊の軍人達だったら、一体どうしますか?
法律的には、善の方に居て、職務を果たしている最中なんですよ。
正しく自分に下された指令を果たすべきだって思いはあるんじゃないかって思うんです。
けど、兵たちはそこで「辞める」んです。
なんの指令や保証があったわけでもないんでしょうけど、武器を下ろすんです。
そのとたん、神学生たちの間から女学生たちが走り出てきて、籠の中に盛った花束や飲み物を、兵士たちに手渡してゆくんですね。
そして百万人の拍手です。
すごいことじゃないですか?
命令を果たすために生きて来た軍人が、自分たちの心に従ってしまったんですよ。
これ、たぶん日本人だったら出来ないでしょうね。
アイヒマンの故事よろしく、容赦なく公僕としての職務を果たそうとすると思います。
この様子は、すべて世界中にテレビで生放送されていました。
三日後、コラソン・アキノは大統領に赴任します。
群衆はすでに大統領とはみなされていないマルコスを求めて、大統領官邸であるマラカニアン宮殿に向かってゆきました。
マルコス大統領は宮殿からヘリでハワイに亡命します。
これらの風景、および解放されたマラカニアン宮殿の模様は当時のワイドショーで繰り返し流されました。
この革命が起きたのが、1986年です。
私ももう、物心がついていて何が起きていたのかをなんとなく把握していました。
つづく