周りには、意外に沢山、人生に困った人が居るように感じます。
そのせいか、そこにつけ込む輩も多いようです。
書店に言って雑誌コーナーで目についた健康法の見出しなどを見てみようとすると、健康について書いてあるのは最初だけ、ページをめくると占いやら開運を招くという印鑑の通信販売やらのオカルトが次々と出てきたりします。
どうも高齢層向けの雑誌のようなのですが、判断力が下がったり活動力が落ちて気弱になっている高齢者につけ込んで所持金を巻き上げようなどとは大変に卑しい所業です。とんだ開運法もあったものです。
このようなペテンがまかり通っているのは、やはり多くの人が確かな物を自分自身の中に持っていないということなのでしょう。
気功や中国武術が、そのようなオカルトと同列に扱われている可能性を思うと、非常に胸が痛みます。
本物の伝統気功がなぜ普及したかというと、一つにはお金がかからなかったから、ということがあります。
病気になってから大枚をはたいて高額な薬を買うよりも、事前に自然に調和した生き方をしておくことで未病の段階で症状を抑えようという知恵がそこにはありました。
現代人のように、お金はあっても指針が無いというのとは状況が違います。
昔の故事でも、お金は持っている人間が仙人から長生の秘伝を買おうとするも嘲笑られるというような話があります。
それまで不摂生や不善をなしてきたのに、急にお金ですべてを解決しようなどというのは昔から笑われてきたのです。
お金は自然には通じません。
それまでの生き方が問われます。
そのための方法としての自然と強調した生活のしかたというのが本来の気功です。
気功を行うことで身体の感性が変化し、快を感じる能力が開発されてゆきます。
自分の身体が快と感じることをして、深いと感じる物を避けることで、動物はきちんと自分の命を生きてゆけるように出来ています。
この快を感じる力の大きな部分として、美に対する感性が含まれます。
正しい行動は美しい。
理にかなった行動は美しい。
もちろん、美には多様性があるので貴腐や倒錯美などもありますが、その土台となる質朴な美感というのは必ず素直に肉体で感じられるはずです。
倒錯した耽美は、どこかに必ず不快感が伴うと思われます。
人間は生きていると、どうしても醜い物や正しくない物を目にしまい、それらが暮らしの中に入ってきます。
その調和を取るために、美しい物はどうしても必要になります。
もしその美が歪んだ美であったら、生に入った醜いものはさらに大きく育ってしまうでしょう。
虚飾や華美ではないのです。
本当に、ただ心地の良い、気持ちの良い美。
それと共に日々を送ることが、良い生き方だと思います。
気功のあるライフスタイルとは、美しい物と協調した生き方、ということです。
それは、スピリチュアルでもオカルトでもお金で買う物でもありません。
自分の感性の一部が美しくなるから得られるものなのです。