いま、日宋貿易について書かれた時代小説「海国記」を読んでいます。
これは平安時代に当時の中国の王朝との貿易を興した人たちを数代に渡って描いた作品です。
元々、それまでは遣唐使の制度があったように日本と中国は盛んに貿易をしていました。
しかし、唐朝が滅びて宋に代替わりすると、新しい朝廷は日本との貿易を禁止しました。
そこで唐からの文化や物品が入ってこなくなり、日本の貴族たちはそれまでの中国至上路線から本朝独自の文化を見出してゆきました。
これがいわゆる王朝文化となってゆく訳ですが、この状況の間隙を縫って宋との貿易を(密貿易)拓いた人たちがいます。
この辺、北方水滸伝、岳飛伝でも描かれていますね。
宋側は梁山泊のような反社会勢力の皆さんだったのですが、日本側は地下の操船士たちと、そこに乗り込んでいった武士たちでした。
その代表が平正盛で、このルートが息子の忠盛に受け継がれますが、彼こそが平清盛の父親です。
この密貿易で得た財産で彼は平氏一門の勢力を盛り立て、やがて日本を乗っ取ってゆくのですから、日本史への影響が大変に大きい事がわかります。
こういった経緯を描いているのがこの小説なのですが、最初に登場するのは楫氏(かじし。操船士のこと)の少年です。
彼は周りの大人たちが宋との抜け荷をしているのに同行していて、齢七つにして「これからどれだけ生きたとしても、世界の半分も見ることが出来ないのだ」と言うことに気が付いてショックを受けます。
それが彼の中に、世界を知りたいという気持ちを芽生えさせたのでしょう。
長じた彼は、密入国していた宋人と、当時都で大きな財力を保持していた貴族である季綱朝臣との間を取り持ちます。
この季綱朝臣は日唐貿易時代を知っている儒者で、日本が文化の本流である中華から学ぶことを辞めてしまってかな文化などの独自進化、悪く言えば左道傍流の劣化コピー文化に走っていることを憂いている人でした。
そこに来て、実は宋から博多に書物が密貿易で持ち込まれていると聴けば大喜びで買い取ろうと出かけることになります。
この買い取りに護衛として同行するのが平正盛でした。
正盛はまだ若い武門の役人なのですが、遥か奥州では藤原氏や源氏が活躍しつつも、その威名は轟きつつも実際は武士同士で私闘を繰り返しているだけであることに疑問を感じていました。
この三人、ある意味で私の中にある要素をそれぞれ象徴しているような感じです。
彼らは組んで船を支度して博多に向かい、ひそかに持ち込まれた財物、蔵書を獲得することに成功するのですが、日本名物の火盗にやられて一切合切を焼かれてしまいます。
打ちひしがれる季綱と正盛でしたが、そこに高笑いが聴こえます。
例の楫士です。
「ふははははははは、ここになくても取りに行けばよいではないか!」
生まれつき、ある程度「持てる者」であった季綱や正盛と違い、彼は身一つ以外何も持たない存在だったからこそ、物質の消失という目に見える事象に囚われず、そこに至るまでに得た経験と、季綱の財力、正盛の武力、運搬のための船、それで通るれることが分かった海路の情報などの「要素」の部分を「得た」と感じることが出来たのではないでしょうか。
魚ではなく、魚の釣り方が大切だ、というのは中国の昔の言葉で、中国武術の世界では非常によく言われる物です。
まさに彼は、このことを知っていたのですね。
目の前の一匹を逃しても、釣り方さえ得ていればまたいくらでも魚は手に入れられます。
私たちの練功も同じです。
一つ一つの技やその名前と言った表層的な情報ではなく、本質的な中身、構造を理解することこそが肝要です。