前の書き込みにも書いたように、どれだけ道場に通っても工夫をして練習をしても、自己流の範疇を出ず、どこにも行けずに悩んでいる人があまりに多いことを憂います。
私自身も、20年以上もそんな中に居ました。
そのために、相対的な強弱に身をよじるような思いをしていたころもありました。
その焦がれから離れようと武道や格闘技を辞めることにしてもう十年です。
最後に中国武術の謎を体験してみたいと思って今に至りました。
ある時、師父が言っていたことを思い出します。
「ぼくにはかくしんがあります」
その時は確信だと思っていたのですが、いまにしてみれば核心であったのだと思います。
いま、その核心は私の中にあります。
なぜ、私の学んだ武術だけ発勁が特別なんだろうとずっと思ってきました。
別に発勁は武術のすべてではありません。
たまたまそういう物だと思うしかありませんでした。
また、武術の世界には技撃や医術、点穴や断脈など、高級な物はいくらでもあります。
とくに気にするほどのことでもないと思っていました。
しかし、この核心は発勁でした。
その手法に、大きなメッセージが隠されていました。
それは仏門の「護法の秘儀」でありカルロス・カスタネダのような輩の言うところの「呪術の実践」でした。
私がずっと言ってきた禅の行であるということが、形を持って備えられていました。
これは決してそんなに難しい物や、選ばれた人間にだけ出来る物ではありません。
篤実に理解を進めていれば、虚弱な人や女性や老人にでも可能な物です。
むしろ、拙力に充ちている頑強な者ほど迷い道にそれて行ってまっすぐ得ることが難しいかもしれない。
これが自我による迷妄です。
これまでも、いろんな人を見てきました。
自分を救おうという妄執に捉われている人もおそらくダメです。
以前居た同門は、その思いが強くてなんでも安易に自分にとって都合が良いよういに解釈してその場の自分の機嫌を救済しようとするスピリチュアルな者でした。
先生が「何も感覚が無いように。どこにも力感が無いように」と指導すれば「なんにもないんだー」と言って、いい加減に振りだけの稽古をして「俺は○○拳の拳士なんだー」などと吹聴して自己満足に浸っていました。
才能もあり、フィジカルにも恵まれていたのですが、精神が向いていなかった。
目先のご機嫌ではなく、誠実さを優先しなければいけません。
自己の都合はおいておいて、本当のことを知りたいという思いからくる行動、その積み重ねが、確実に人を真理に届かせます。
浅ましさは足を引っ張るだけです。
たくさんの誘惑があります。
拙速に結果を求めて格闘技的な動きでごまかしてしまったり、よその動きを接ぎ木してそれぞれが喧嘩してしてしまったり。
そういう真実の追及の阻害になる欺瞞をすべて捨てる。
やるべきことをただやる。
それが禅の行であり、その昇華として宿るのが我々の功です。
たかだか一、二年。
早ければ半年。
長い人生の内、それだけの期間をわずかに誠実に過ごすだけです。
とびぬけて苦しいことをする必要はありません。
ただ普通に日常を送る中で、ほんの少し自覚を持つだけです。
それだけで大いなる遺産を受け継ぐことになります。
私はいつも、この宝を多くの人に分かちたいと思っています。
頼むから変な道に行かずに、幸せになってほしいと思って頭をひねっています。
おそらく、こういうことが伝人の務めなのでしょう。