先日、最近は見ればその人の功が少しうかがえるようになってきた、と書きました。
が、これは自分が優れているという訳ではもちろんありません。
ただ、分かるレベルまで伝を得ている、というだけの話です。
ちなみに、見るだけではなく、触ればさらに分かります。
これは功の部分かもしれません。
功と伝はまた別の物です。
私のように功は凡庸でも、授かっている伝があれば、その見地から物を見るということは可能です。
学習環境に恵まれて、余人が知りえない伝を沢山得ている名門の先生の中にも、功がイマイチという人がやはりおります。
伝はカリキュラムに、功は個人に宿る物なのでこれは恥ではないと私は思います。
私自身、当然、自分より長く功夫を積んでいる方々とは、功は比べるべくもありません。
また個人の素質や才能もあります。
それらに恵まれた人々は、ろくに教えなど受けなくても見ただけでどんどん体得出来て、独自に発展させることもよくあります。
そういうタイプの人にどうやってるのかを質問すると、十中八九は「自分でもよく分からない」という答えが返ってきます。
そのために、私のような凡人師父がいるのです。
自分に才能がないのが良いほうに作用して、すべてを伝から人に伝えられる。
「なんでこんな簡単なことが出来ねえんだ!!」となることがありません。
よくも悪くも透明なパイプになれます。
そしてそれは私たちが理想としているあり方です。
才能のある人は、色のついた紙のようなものです。素材の良さを生かして素晴らしい物が作れる。
才能のない物は白紙です。時間はかかりますが、だからこそ癖のない物が一から描ける。
個人を伸ばすスポーツではない伝統武術には、後者のタイプが実は重要であったりします。
誠実で篤実な人がきちんと報われるというのが、伝のある環境だと私は思っています。
お釈迦様曰く、人への布施には法施という物があるそうです。
これは正しい教えを人に伝えること、という意味だと聞きます。
素直に伝を得た人々はきっと、レイ・ブラッドベリの小説に出てくるように、正しい法をきちんとまた次の人々に伝えてくれることでしょう。