緊急事態宣言が再発令されるまでの状態に成り、日本の病床はすでに逼迫していると言います。(執筆時1月4日時)
症状の軽度な人などはホテルにて待機処置が行われていますが、精神障害を持つ人の中には暴れてしまう人達もおり、そのような人たちは収容拒絶をされて放り出されたりということが起きているそうです。
ことは障害なので、ただ言い含めて同意を求めて改めるということは難しそうです。
東直巳の小説で、主人公の少年が駅で困っている知的障害の人を助けようとしたのだけれども、相手は障碍者で自分の既知のことだけに執着して考えて行動するということが出来ないために、助力しても助けらえずに苛立つという場面があります。
正義感や善意はあるのだけれども人格的に未熟な主人公を表現したシーンで、彼は障碍者に対して「そっちが障碍者なんだからそういう自分を信じないで健常者の言うことに従えよ!」と心中独白します。
この、自分を冷静に分析して理論的に欠点を補うということが出来ないのが障害ということなのだとは思うのですが、私も又、障害のある人がその状態をどう感じているかは分かりません。
しかし一方、世の犯罪を犯す人々や情緒的に安定していない人、および多くの依存癖のある人々やいわゆる「出来ない」人などはこの障碍者の状態と本質的にそう変わらないのでは、と思うところが多々あります。
定型発達と障害の境界は人間が勝手に決めた物で、本来すべての欠落はただの程度問題なのではないかという気さえします。
私の従弟も発達障害なのですが、学習能力は高く極めて成績優秀でした。
私の周りの後の発達障害が診断された友人たちもみな、私よりずっと学習能力が高い。
しかし、欠点を補うところが苦手だと言うのは、単に人の話を聞く気がないのかそれとも脳の構造的にそれが不可能なのか、判別しがたい。
ただ、治せないのは障害のせいだと考えた方がフェアなのかもしれません。
発達障害というのは、あくまで診断の末にある物です。
診断されなければそこは不明のままで、日本の社会においては全員が義務教育課程などで診断を受けると言うことも無ければ多くの企業でも同じことは無いので、現状多くの人々の発達状態は不明瞭なままとなっています(警備業などは犯罪歴や精神疾患の有無などを明確に証明できないと就業できません)。
なので一般に「普通」だと言われている人たちも実際は何らかの証明の末に「普通」と言っているのではなくて単に未検査であることを意味しているに過ぎないと言えます。
そのような人たちにおいても、トラウマや環境要因によって改定しがたい欠点というものが得てしてあるものです。
その中にはやはり、取り組んだ結果能力的に治せない物もあれば、そうではなく直視して取り組むことも出来ないというケースもあります。
このことを、幼少時に飛び越せない高さの柵に囲まれて育った家畜は、やがて充分に飛び越せるだけに成長しても飛び越えないという逸話に重ねてみることも出来ます。
私に取っては、すべての欠点や弱点は克服すべき物でした。
元々何も持たずに生まれ育ってきた身です。そのままにしておいて良い理由が私にはありませんでした。
人並みに生まれ育った人たちで人並みに生きられると思えばこそ、欠点を放置してそのままにしておけるのでしょう。
それが許されないクラスの人間も存在するのです。
荘子の思想では、人間だけが間違いを犯すと言います。
そして、それこそが人間を人間たらしめる物です。
だからこそ、中庸が求められる。
必ず完璧である自然そのものになる必要も、過ちばかりする人間でありすぎることも無いのです。
中庸を取る。
過ちを犯す人間だからこそ、過ちを正し、欠点を克服することが出来る。
自分を乗り越えることが出来る、唯一の生き物に我々は生まれてきている訳です。
だからこそ学ぶと言うことは神聖視されるほどに尊ばれているのではないでしょうか。