以前に人から「月にどれくらい本を読むんですか?」と訊かれて面食らったことがありました。
そんなことは考えたことがない。
月にどれくらいパンを食べるんですか? と訊かれたような物です。
あるいは、水を飲むんですか、と。
常時習慣として行っている物だからわからない。
しかしこれは逆に、本を読まない人間が居るのだ、という見落としがちなことを思い出させてくれます。
私のような人間は、常に本を読み、身体を動かし、両者の融合としての伝統的な学問を行っているから、常に物の見方や感じ方が変化している。
あるいは、自分自身に変化を直接与えない物にしても「他人はこう考える場合もあるんだ」ということを知ることが出来ます。
そういったこと、数を数えるまでもない「営み」が人の身体や心を作るのではないでしょうか。
逆に私はテレビは観ないしマンガは読まないしゲームもしない。
ついでに言うならギャンブルもしないし酒も飲まない。
しないこともまた、私を作っているはずです。
他人がどんな人かを知ろうと思うなら、その人がその半月の間にどんなものを読み、何をしなかったかを聴けばある程度は人の質が分かるかもしれない。
しかし、それだけ本を読むのが好きな私でも、いわゆる推理小説にはまったく関心がありません。
人の推奨には乗るタイプなので、勧められた物には目を通すのですが、やはり推理小説が少なくともその推理の部分で面白いと思ったことは一度もありません。
というのも、推理小説と言うのは構造的に奇妙なところがあって、まっとうな作りのフェアな作品であるなら、頭から順に読んでいれば答えは中に書いてあるものです。
そうでないとアンフェアな物であるということになってしまう。
だからこそ「アンフェア」という推理小説がありましたし「信頼できない話手」というトリックがあるのでしょう。
ということは、ちゃんと読んでいれば何も不思議なことも意外なこともないので、トリックや犯人の解明ということに関してはなんら別に面白い部分はない。
それがもし、犯人が分かって面白いと言うなら、それはただの問題文の長いクイズです。
だからこそ、昔は推理小説は準小説、亜小説のような物として一段下に見られていたのかもしれません。
まぁ、昔は司馬でさえそう見られていましたからね。格式がいまよりずっと高かったというのはあるのでしょう。
とはいえ、推理小説の謎ときという部分の面白さを支えているのは、すなわち読み手の傲慢さなのではないかという気がするのです。
自分が読んでいてわからないということそのものを「異なもの」として捉えられる自分への過信があるからこそ、謎を謎として楽しむことが出来るのではないでしょうか。
私は常に能動的に本を流し込むように読み続ける人間で、それは自分が知らないことを吸収することがおそらく好きだからです。
つまり、読んだ本の中身を自分が当てたとか当てないとかそういうところにまったく興味がない。
謎が解けるのはちゃんと読解してれば当たり前だということだし、解けなければ「あぁ、読み落としたか」というだけのことです。
主体は自分なので、そんなのその時の体調や集中力でいくらでも変わるから別にそれは本の中身と関係はないと思っています。
他人様が書いた本の評価を自身の眼鏡の調子で裁定するというのは、やはり傲慢で在る気がします。
これと同様なのが、手品。
さも得意げに手品を始めてもう誰も会話が出来ない状態になってもずっと手品をし続ける人達って、素人でもプロでも居るのですけれども、手品、面白いですか?
手品もまた、自分が知らないことや自分がやってことないというだけのことを訓練を積んだ人間がやって見せるだけのことで、別にあれは不思議なことなんて一つもないわけでしょう?
だって、現実に目の前の人間がやって見せている訳ですから。
それを不思議だと思わせるのは、自分の価値観を妄信する傲慢さの色眼鏡ではないですか?
私は元々なんの才能もない人間で、逆上がりもバク転も勉強もできなかった。
英語を喋れることも歌を上手に唄えることもピアノが弾けることも、みんな私にすればすごい超人技です。
速く走れることも給食の早食いも同じ。
それらはみんな、自分に出来ないだけで人間全体でみれば当たり前に出来ることでしょう?
イギリス人は幼稚園児でも英語話せる訳ですし。
それらの当たり前の能力の中でも、より美しくピアノが弾けるとか、より美しい言葉を選んで英語が話せるとかになるとそれは一段上の話です。
でも、自分が出来ないことを不思議だと思うのはそれとは違いますよね。
それはただの自己中心的な傲慢です。
よく、ベンチプレスで100キロ持ち上げられる人間は全人口の10パーセントだなんてことがフィットネス界では言われます。
でも、ベンチプレスやってる奴自体が全人口の何パーセントいるのよ?
90パーセントのうちの多くは「やってない」であって、やればまぁ、出来る人のパーセンテージなんて上がるでしょう。
もちろん、自分の体重との相対的な比較になるのでしょうが、女子で50キロ以下の人でも選手なら100キロは挙げます。
となると、健康で体重50キロ以上の人類がその気なればかなりの割合で100キロは上がる気がするんですけどねえ。
ただ「やってない」だけのことが「すごい」や「不思議」にスライドしてしまうのは、人間がどれだけ思い込みで自分の価値観を作っていて現実の世界と向き合っていないか、ということを現しているのではないでしょうか。
自分は勝手な思い込みで作った壁で囲った、狭い世界に生きているのではないか、ということを疑うことから、自浄作用と言う物は始まるように思います。
実際に、そういう勝手な思い込みの壁は現実には通じないということを、いま現在我々は思い知らされているはずではないですか?