年末から、首都圏での病床の不足が発信されており、不要不急の外出の自粛が求められていました。
その中で、初詣には大量の人出があったとラジオのパーソナリティが言っていました。
テレビ番組のリポーターたちが参拝客に「何をお祈りしたのですか?」と訊くと、多くの人が「コロナが収束しますように」と答えたそうです。
「科学じゃないんだ!?」とラジオのパーソナリティは声を上げていました。
お前らがそうやって祈りに行って感染を広めてるんだよ!! と私には聴こえました。
少なくとも私はそう感じているからです。
私は信仰は否定しませんが、これは明らかにその負の側面だと言わざるを得ない。
オカルトやスピリチュアルの良くないところが凝縮されているように感じます。
ある大企業の外国人CEOが「日本人は英語は上手いが話が一切通じない」と言ったそうです。
これはつまり、論理的思考が出来ないからでしょう。
結果、この企業では数億円かけて、六年以上の月日をかけて社員に話し方の講座を受講させました。
英語のではありません。
日本語のです。
巨大な一流企業の社員と言うことは、まぁエリートと言って差し支えないでしょう。
その人たちが、物を考える力が足りないので問題視されて再教育を施される。
日本社会の根幹を浮き彫りにしてはいないでしょうか?
ユダヤ人の哲学者、ハンナ・アーレントは第二次大戦後に戦犯で逮捕されたアイヒマン中佐へのインタビューを通して、ナチスにおいて一体どのような大衆心理が働いていたかを世に発表しました。
彼女の仕事を見ると、先人であるオルテガの研究を受け継いで、近代社会と大衆の実態を読み取れるように思います。
オルテガは、自分の力で自分の人生を生きる人々を庶民と呼び、群衆生物化した大衆とは区別をしましたが、アーレントの研究からはさらに、物を考えない大衆と考える力を持って自覚的に生きる市民と言う物の区分を読み取れるように感じました。
初詣でCOVIDの収束を祈りに集まってしまう大衆、英語はうまくても話しが出来ないエリートの大衆、上から下までこの国には物を考えないと言う風俗が通底している。
ハンナ・アーレントは、論理こそが大衆化を避ける物だと言っています。
論理が通っていることが「話が通じる」ことでしょうし、論理が無いから上述の外国人CEOは「日本人は話が通じない」と言ったのでしょう。
自分と言う物に全体重をかけるのではなく、論理と言う他者の要素を内に抱えることが、自浄作用の基になるのではないでしょうか。