私の古武術時代の弟子が、重力泥棒ということが出来ました。
一緒にホームセンターなりスポーツ用品店なりに行くと、そこにある家に置くには不便そうな大きなダンベルを持って、何度かカールをするのです。
そして「よし、覚えたぞ」とつぶやきます。
以上、犯行終了。
これ、神経系にそのダンベルの重さ、30キロなりなんなりを記憶させて、以後家でエアーでカールを行うのです。
そうすると、実際に自分で効かせたい筋肉に刺激を与えることが出来て、筋肉が鍛えられます。
まさに「意」と「気」の働きです。
このようにして、重心や重さの働きを神経系に記憶させて、その時に導引する筋肉の働きを導き出す、ということが中国武術の用勁の基本にはあるといまでは分かります。
蔡李佛では、初歩の段階で「重勁」という発力を用いるのですが、これがまさに同様の構造によって成り立っている物だと思っています。
この、体内で重さを操る段階はあくまで過程です。
その後にこの重さをどう扱って勁の連結=勁道を作って活用するかが本番になります。
震脚などはその代表でしょう。
震脚そのものは発勁ではありません。
同様のことを手でやっても、まだそれが発勁が出来るとか言うレベルの物ではありません。
それらの断片的な身体の活用法を組み合わせて一つの構造を体内に作り上げたときに、ようやく形になります。
生の力や生の体重をそのまま使う間はまだまだ。
明の段階ならそれでも良いと言えても、暗の勁に転化するにはより本質的な転化が必要になります。
両者はバールのようなもので殴るかバールのような物を使ってピタゴラスイッチを作って仕事力を作り出すかくらい違います。
前回と同じ言葉の繰り返しとなりますが、早く結論にたどり着くほど出せる力は軽い。
安易な物に飛びつく自分への自浄作用は非常に重要な物であり、それこそが行を通して獲得するに値する価値のある自分自身の人生の財産でありましょう。