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人間主義の敗北――超人の再評価

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 以前も書いたように、禅宗の総本山である少林寺より伝わる武術の継承者としては、仏法とタオの間で悩む日々を送っています。

 禅というのはインドから伝わった仏教と中国の思想であるタオが融合して生まれた中国佛教と言えるので、行を取り組むに当たってどちらの考えを優先すべきかと悩む場合があるのです。

 どちらもその姿勢においては限りなく共通性があるようなのですが、私が引っかかるのはいつも最後の壁の部分です。

 それは、人間にいかな価値を持つか、というところです。

 タオにおいては、人間は自然の一部であり、意味はない。

 無為自然です。

 他の動物や石、ちり芥と同じで特別な価値はない。万物斉同です。

 かたや、仏教では人はやはり流転を繰り返す存在であるとしますが、しかし、向上と言うことを説いています。

 ただ生きればそれでよい、ということではありません。

 功徳、善行、八正道というような「正しい」生き方という概念があります。

 そのような「正しさ」はタオにはありません。

 陰陽思想なのですべては相対的な物であって正道などと言うようなものは存在しない。

 動物はそんなことを考えないでしょう。

 動物と同じようにただ自然にあるがままに生きれば良いという考えです。

 言い方に依れば、殺人窃盗なんでもありで、実に中国史を振り替える上で頷くことが出来るワイルドな価値観だと言えます。

 この両者の思想の違いは、すなわちナチュラリズムとヒューマニズムの違いであるように感じます。

 ヒューマニズムと言うのは、人間を中心にした史観と言うのみではなく、人間は向上することでより良い存在になっていって、それに伴って世界をよりよくしてゆくだろう、という時間的な漸新世を前提とした価値観だと言います。

 この思想、現在では敗北した思想であると見なされているそうです。

 というのも、人間は進歩なんてしない。

 いつまでたったって同じことをしているだけで進歩しないし良くもならない、という考え方の方が信ぴょう性があるように思われているというのです。

 これは確かに、人間が進歩して歴史を推し進めるのだという歴史主義の共産主義が敗北した歴史だと思われていたことと関係があるかもしれません。

 いや、共産中国は驚くべき発展を遂げていますが、あれを見て人間が進歩したとは感じられない。

 あくまで歴史的紆余曲折を経て結果そうなっているという以上には見えません。

 いま「狂気とバブル」という本を読んでいます。

 これは歴史上起きた、経済恐慌や魔女狩りなどの事件を通して人類の愚行を描いた本です。

 その冒頭において、作者はこう書いています。

 

 本書の狙いは、さまざまな理由から集団心理が興奮状態に陥った驚愕の事例を取り上げて、集団がなぜこうも簡単に道を踏み外してしまうのか、何かに陶酔しているときも悪事に溺れているときも、人間がなぜこうも他人に追従し、群れることを好むのかを明らかにすることである。

 中略

 集団的な妄想が見られるようになったのはかなり昔の時代だが、それは公範囲に伝播し、しかも長い年月を経てもくすぶり続けているため、その歴史を記述していたら二~三巻ではもちろん、五〇間あっても足りない。

 本書は歴史書と言うよりは妄想の事例集のような物と考えた方がいいだろう――これは人間の愚行に関する膨大な書物のほんの一部にすぎず、まだまだ完成には程遠いが、かつて英国の古典学者リチャード・ポーソンも、もし自分がそんな本を書いたら五〇〇巻になってしまう! と冗談交じりに話していた。

 

 この文が書かれたのは、1841年のことです。

 二度の世界大戦以前です。

 昨今のQアノンによる襲撃事件を引き合いに出さずとも、身近に見られる、緊急事態宣言下で不要不急の外出を控えるように勧告されているにも関わらず外に飲み歩いたり遊び歩いたりする人々の姿をみるだけでも、人類が経年によって賢くなどなっていないことがご理解いただけるかと思います。

 西洋哲学のギリシャ、ローマ幻想しかり、中国哲学の古代理想世界主義もしかり、人類が賢明であった時代と言うのは伝説の中にしか存在しない。

 古代からずっと、人は進歩をしているとは考えにくい。

 これがヒューマニズムの敗北側からの視点だと言って良いことでしょう。

 そのような状況は、仏教的な見方をすれば永遠に苦界巡りを繰り返すという苦しみの歴史だともとれそうです。

 一方、タオでは生きているいまこそが一瞬で在り、もともと存在しなかった塵芥がたまたま結びついていまの自分を形成しているだけで、死んでまた塵芥に消えるだけだという考え方をします。

 仏教が修行を積んで解脱するのに対して、タオでは考え方一つで解脱してゆく。

 あるいは、すでに自分が繰り返す苦界などは自分の考えの中だけにあるものであって存在していないのだ、ということに「気づく」。

 このような東洋哲学を学び、自己の哲学の参考にしたのが19世紀の西洋哲学や心理学ですが、その中に一人、このトピックにうってつけの人が居ますね。

 ニーチェ君です。

 彼は、超人追求と永劫回帰の思想を唱えました。

 超人追求は、まさに人としてのくびきに捉えられた生き方を超越するというまさに人を越えた人=ブッダの道の影響が感じられる物です。

 そして、永劫回帰とは、仏教的な苦しみの輪廻転生を、受け入れて喜びをもってそこを生きよというタオ的な思想です。

 こう考えると、彼はただの古代妄想狂の面白カリスマではないですね。

 なんとなく、パンクスのような気やすい見方をしてしまっていましたが、いや、すまんです。

 ニーチェ君、やるなあ。


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