長年、こちらで記事を書いているので、根本的に私がどのような武術史観を前提にここで書いているのかということをしばらく書かなくなっていました。
改めて繰り返しますが、根本のところでは中国武術という概念にはインド武術からの影響があり、そのルートは船による南のルートと、シルクロードを経由した北のルートがあり、ともに仏教文化の伝来に付随して身体観、行として伝わっている、というのが私の見解です。
南方のルートはマラッカ、インドネシア、フィリピン、台湾、沖縄、長崎と繋がる海洋文化の物となり、倭寇を契機に一大発展を迎えました。
この流れを引く武術を私は海賊武術と呼んでいます。
もう一つは、回族武術です。
ダジャレではありません。
中国において回族と呼ばれる人々がシルクロード沿いに点在していて、彼等によって中国武術のアップデートがもたらされたのです。
回族なら仏教徒ではないではないかと言う意見は出ても当然なのですが、初期回教徒というのはみな改宗したインド人、印橋です。
イスラム教が起きたのは六世紀と他の大規模布教宗教に比べると後発です。
そして、インドにおいては仏教はヒンズー教に取って代わられて衰退した。
玄奘三蔵が中国における道教や断片的な仏教を改めるべく西域に般若心経を取りに行った頃と、中東にマホメットが存命してイスラム教を作っていたのは同じ時代です。
両地域間で同時に宗教的改革が起きていたのです。
マホメットが亡くなり、イスラム教が普及して行ったのと、三蔵法師が経典を持ち帰って、のち長い時間をかけてそれが翻訳されて中国に仏教が改めて広まっていったのは同じ時代なのです。
なので、この時代のインド文化圏が冠として何教の文化となるのか、というのは混在するのです。
実態は仏教徒の物でも、改宗後は冠が回教徒の文化として変わって伝承されることになります。
日本のお寺にお稲荷さんがあるのと同じですね。混交されて伝播するのです。
ですので、インド武術、ある時はバラモン教武術、ある時はヴェーダ武術、お釈迦様の直後は仏教武術として伝わった武術は中国に伝わった後は回族武術と呼ばれて現在に至っています。
この回族武術の中核には、心意拳があり、これは中国の佛教に伝わっては少林寺の心意把となり、民間の漢族には形意拳として伝わったと言います。
それぞれの文化的背景によって変化が加わりましが同根の物だと見ています。
このアレンジの部分こそが文化的価値なのですが、それぞれに共通性は極めて高い。
さて、前置きが長くなりました。
具体の話に入りましょう。
形意拳の中に、足をやすりのように使う、という教えがあります。
これ、解釈の幅が大変に広い物です。
なにせ数文化にまたがって伝わった物です。それは沢山の解釈が出来るでしょう。
恐らく、心意拳、形意拳からこれを理解しようとすると非常に難しいのではないかと思われます。
内またにして両足をこするようにしようとしたり、あるいは地面を足裏でこするようにしようとしたりしてもおかしくはありません。
私の見解ではそうではありません。
この言葉はおそらくこれのことだな、と理解できたのは、五祖拳をやってからでした。
心意拳、形意拳のような独特の立ち方に昇華した武術からの取り組みではありません。
平馬(馬歩)、その中でもさらに少数派のすっ立ちに近い形の鉗羊馬がちな福建系南派武術からの理解です。
私はまず、もろに平馬の広東南派である蔡李佛から改めて取り組めたことが良かった。
それから五祖拳で、鶴拳類のアプローチが出来ました。
この、最も広くて低い立ち方から、少し狭まって少し高くなったという段階を経由したことで段階ごとの練功が出来たのが大きいように思います。
蔡李佛の中にも、高級な段階での高い立ち方の段階があったのが幸いでもありました。
形意拳で言う三体式で行う套路があり、心意六合拳的な技法で構成された套路もあります。
こうして段階を線的に経たことで文脈が浮かび上がってきます。
そのベクトルを延長すれば、必然的に行く先が推測しやすいと私見します。
五祖拳が段階的に心意拳類になってゆくという話があったので私は初めこの拳に関心を持ちました。
いまでは南の海賊武術ルートの観点から見逃せない武術だと思っているのですが、やはりこれらの統合的な視点から見た上で、いかにもそのようなことはありえると思っています。