先日、「わかると言うこと」という本を読みました。
これは脳医学の先生が書いた、認識についての本です。
つまり、我々が行において高めることを中核としている「識」についての本です。
この中で、エントロピー理論と言う物について触れていた部分が非常に印象に残りました。
元々、科学の哲学的側面(と言う表現は本来変だと思うのだけど表現として)が話題に上るときに、エントロピー理論というのは頻繁に机上に上がる物でした。
これがどのように面白かったか、私なりの解釈で触れてみたいと思います。
まず、物事には拡散してゆくと言う性質があるのだと言います。
これはビッグバンによる拡散がすべての起因であり、それが今でも続いているからだとも言えると思います。
結果、浮いた物はやがて沈み、燃えた物はやがて炭化という化学変化をしつくして燃え尽きます。
このように、すべては変化する。万物不変の法則です。
これは、あらゆるものが拡散してゆく性質を持っていることの結果です。
このことが、エントロピーの法則ということであってるかな?
つまりは、燃え盛る炎は燃え広がるから燃え尽きるのです。
拡散しつくして微細になりつくす。
タオにおいては「勢あるは尽きる」と言います。
その視点から、浮かび上がる物を陽、沈むものを陰とし、それぞれが極まれば反対の性質に移行するとして陰陽円転だとしています。
このエントロピーの法則は、もちろんミクロの世界の原子、分子の運動から始まっています。
私たちの細胞の中にも幾つもの運動があります。
その細胞の中で、原子や分子が拡散して行きたがって動き続けている。拡散しようと言うエネルギーがある訳ですね。
その、物質にはエネルギーが内包されているということを気という言葉で古人は表現しました。
気と言うのは本来、情緒的な物ではありません。
磁気、蒸気、電気など科学用語として気が多用されているのはこの文脈の延長上にあるためです。
細胞の中にエネルギーを閉じ込めておくのも、そういった一つ一つの細胞同士を結合させているのも、エントロピーに抵抗する力が働いているからです。
万物は陰陽関係にあるので、必ず相反する力が存在するのです。陰陽思想ですね。
その、拡散しようとするエントロピーに反作用する力によって、我々は形骸を保っています。
原子や分子を細胞の中に閉じ込めたり、繋ぎとめたりしている力によってですね。
相反する力が釣り合っているから形を保てている訳です。
この繋ぎとめる力を失うと言うことは死を意味しています。
細胞同士の結合はほどけてゆき、屍は分離して溶解してゆきます。
老子にある、気集まれば生、気散ずれば死の言葉の通りです。
このエントロピー理論が哲学の文脈上で言の葉に上りやすいというのは、ここまでのタオとの整合性をもってしても実感できるところだと感じました。
このような、科学のアプローチによる古典哲学の認識、ということがこの度に非常に面白い体験として得られました。
昨今このような認識能力が、世界に対する解像度として語られるのを目にします。
学ぶと言うこと、識を得るということはこの解像度を高めて世界がどのようになっているのかを知覚する能力を得ると言うことです。
この分野での学問では現在、とうとう神の存在を確認したと言います。
それもまた、大変に興味深いことであり、ヨガなどでのアプローチにも関わる部分であり、またオカルト的な迷妄、偏差への注意喚起を啓発する物だとも感じました。
長くなるので詳細は稿を改めますとして、今回は古代人の身体学問がまた一つ芯を捉えていたともいえるのではなかろうかという処を持って終わりにいたしましょう。