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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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走り抜ける功夫

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 老師から、引き続き五祖拳と通臂拳をオンラインにて教わっております。

 一応、入門套路は一回り教われて、疑問点を解決する段に入ったのですが、そこで前から引っかかっていた処を質問することが出来ました。

 それは、どうも通臂拳、手と足の数が合わない。

 これ、基本的な少林拳なら一歩一拳という言葉があるように、歩形を変えるたびに一つの招式に変化して一つの形式を形作ります。

 日本人が大好きな八極拳も、一歩ごとにしっかりと地面を踏みしめて大きな一撃を出してゆく。

 嵩山少林拳の後裔を称する蔡李佛でも、基本はそうです。

 一つ歩形を変える時に、左右の手を一動作づつ動かすということはありますが、原則、一つの馬の形に対してそれぞれの腕の動きは一つづつが多い。

 これは両腕は身体の中で繋がっていて体幹の一つの場所だと解釈すれば一歩一拳に含めることも出来ます。

 これに対して、むかーーーーし齧った翻子拳などは、一歩三拳という諺があるように歩みに対して手数が多い。

 連打の拳法という特色がここに出ているのでしょう。

 心意拳では、一招平均三歩動くことが多いですが、この時も足の数に合わせて手は一度づつ動くので、三歩三拳ですが約分すればやはり一歩一拳の原則が見られます。

 通臂拳も形式は実は心意拳とものすごく共通しているのですが、翻子拳とは逆に、足が多くて手が一つと言うことがあります。

 そのために、套路が複雑に見えるところがあって老師に質問し、確認させていただいたのですが、やはり私の勘違いでは無かったようで、一つの手の形のまま数歩歩くと言う練功法を見せてくれました。

 あれ、これ、どこかで見たことがあります。

 内容についてはびた一文存じないド素人なのですが、周りでやっている人が多い八卦掌がそういう練功をしているのを見たことがあるように記憶しています。

 後ろ手を頭の高さに掲げ、前手を穿掌にして、喉ほどの高さに差し伸べて、円軌道や8の字軌道で歩きます。

 台湾の偉い先生が、本質的に上に昇れば同じ物なので通臂をしていれば八卦掌をする必要はない、と言っていたのは、ことの実態が垣間見えたような気がします。

 そしてこの足が多いという特色は、走り回りながら拳を打つという通臂武術の様式にそのまま繋がります。

 これはすごいことです。

 実戦に名高いと言われることの一因がとてもよくわかります。

 というのも、私の職業として格闘戦をしていた経験からすると、走り回りながら戦うというのは現実の戦いの基本であるからです。

 相手は走りこんできながらかかってきますし、ことあれば走って撤収します。

 私のように防衛側の職務からすれば、走ってくる相手にこちらも歩調を合わせて迎え撃たなければなりませんし、逃げようとしたなら即時捕捉をしないとなりません。

 一対一で限られた会場内でその場に足を止めて戦う、と言う想定ではありません。

 競技では無いのです。

 生の戦場、それも兵器の飛距離が長い近代戦で名を挙げた通臂武術は、走り回りながら戦います。

 これは実は、合戦武術である蔡李佛もそうなのです。

 一歩一拳の法則のある蔡李佛でどうやって機動力を出すのか、というのが課題になっているのですが、実際に相手の脇を通り抜けながら戦う様式になっています。

 私たちの鴻勝蔡李佛の特色は、多人数戦を想定した全方向対応なのですが、それは相手の脇を通り過ぎながらワンチャン、そして通り過ぎた後にまたワンチャン攻撃が出来る、ダメならそのまま通り過ぎるかやにわに方向転換してまた逆側に相手の脇を通り過ぎながらもう一発狙う、という戦略が存在しています。

 そのために「勁力の鉄球で相手を轢く」と表現される訳です。

 決して足を止めて戦う物ではありません。

 フィリピン武術は近代以降の現代流派の影響で、相手と向き合って一対一で戦う印象がありますが、私が学んだラプンティ・アルニスはやはり全方向対応で、そのルーツは蔡李佛拳にあります。

 ゲリラ戦の国の武術としてそのような形になっていった物であるようです。

 これらの実戦対応を果たすには、どうしても足、歩系に関する要訣が不可欠となります。

 フィリピン武術なならまだ、得物自体が基本的に想定されていて、刃そのものに威力があるので問題はないのですが、中国武術での勁のことを考えるならば、この足遣いと用勁が初めから伝授されていないと形になりません。

 歩き回りながら手打ちで叩くというフィリピン式の徒手武術として用いるなら簡単で実用的なのですが、中国武術はそこで勁の威力が無いと。

 ここで思い起こされるのが、ブルース・リーのことです。

 彼は元々しっかりとした中国武術の素養が無かった上に、それでももっともやっていたのが護身術の拳法だったために、この足の部分について学ぶことが出来ませんでした。

 中国武術では「套路は教えても足は教えない」という言葉があるように、きちんと学ばなければこれは与えてもらえない物です。

 そのため、齧った程度のものを組み合わせていた彼は、自分の武術には決定的に足が足りないことに気付いてそこを改めるということを重視して自分の流派を創始します。

 功夫の代名詞のように扱われる彼ですが、実際には彼の武術の根本は、アメリカン・カラテとフェンシングである、というのが研究家の見解です。

 この二つに共通するのは、まっすぐな前後運動のみである、ということです。

 アメリカン・カラテの元になった日本の空手道は剣道から足を取り入れた物ですし、フェンシングでは横方向にフットワークをすることは反則とされています。 

 いずれも、直線的な速度は大変に高いのですが、これは中国武術が求めている物ではない。

 中国武術的な理想とは、すたすたと歩いてきてすっと触って相手を打つという物であって、ピョンピョン飛び回ると言う西洋スポーツ的な物とはまったく違います。

 すたすたと日常的に歩き、かつ威力を出す。

 これはつまり、重心の移動や遠心力を威力の本質とはしないということです。

 それをやるならスキッピング式で良い。

 ですので、中国武術においては歩法と勁が直結した物になる訳です。

 ブルース・リーが一足で飛び込める3メートルの距離を、十歩も二十歩もかけて進める方が良いのです。

 途中で変化が利くではないですか。

 情勢が変化したのを見てから、いくらでも後だしが可能です。

 細かく歩ける歩数の分だけ、自分のターンがある訳です。

 その上でさらに、手数も歩数と直結していなければ更なる途中での方向転換がいくらでも出来る。

 では、その威力をどう出しているのか、というお話になるのですが、一歩一拳式なら一歩ごとの軸を使って打つことになります。

 極端な話、八極拳などは初歩の段階では一歩ごとに一拳となると聴いたことがあります。

 手足の分離を可能とした通臂では、文字通り臂、ないし通背の背を用いて打てるので、歩みと関係なく手で打つことが可能なのだと思われます。

 しかし、これはもちろん単純な手の瞬発で打つと言うことではありません。

 龍の背骨を使うのです。

 通臂武術の動画などを見ていると、とても不思議な打法があると感じます。

 それは、バレーボールのアタックやサーブのように重心を上に上げて打つ方法です。

 前に書いた通り、これは見た目通りにバレーボールと同じ力で打っている訳ではありません。

 同様の勁だと、客家拳法や五祖拳が、やはり一度胸の部分を開したり浮したりして次の動作で合ないし沈して打つのですが、これらの剣法では私の考えでは胸から下は下に沈み続けています。

 定力が働き続けているのです。

 逆に言うと、下半身がしっかり下に繋がっているから、胸の部分で上に一度上げてまた戻すことで威力を発する。

 ですが通臂だと、足が揃っていて本当に重心が浮いているように見える動きがあるのです。

 ただこれ、いまの段階の私の理解だと、それでも地面との力があります。

 これは私の解釈なので、正統な通臂武術の純功夫のある人からすると「お前、それは全然違うよ」と言うことがあるかもしれませんが、足の裏がどこか少し地面に引っかかっていれば、そこの摩擦力を使って定力を作り、龍の背骨を通してそれを吸い上げることが可能なのです。

 この用法を私は、五祖拳の練功を通して学びました。

 足裏の膜を使って、その膜そのものから前進する力を作り出せる。

 これは実際に重心が前進するというスキップの力とはまったく違う物です。

 この力を活用すれば、すたすた歩きながらのいつでも発力が出来る。

 走り抜けながら、複雑な歩き方をしながら、移動方向とは関係ない方向に好きなように好きだけ打つことができます。


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