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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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本日の研究レポート

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 老師が仰っていた五祖拳の犬の発勁、「揺肩俊胛」というのは福建訛りだと言っていたけど、これ普通話では揺肩抖功と書いたりするようだ。

 おぉ。

 来た。

 長いことこれが抖勁の類であろうと研究してきたけど、まさにぽいではないですか。

 この、抖勁と言う言葉を使うとどうしても太極拳の抖勁を思い浮かべる人が多いようですけど、それは困ります。

 と言うのも、恐らくは全然違う物だから。

 と言うか、恐らくは多くの「薄い」層の太極拳愛好者が思っている物とは違うだろうと思うからです。

 と言うのも、多くの太極拳をする人はなんとなくノリで身体をぎこちなくうねらせて抖勁というとノリでピクッと痙攣する。

 前から書いてきているように、発勁は痙攣や瞬発や体重を乗せることではありません。もちろん遠心力でもない。

 しかし多くの人が私が違うと思っていることをやろうとしています。

 それって単なる野球やボクシングの身体の使い方と本質的に変わらないではないですか。質的転化が行われていません。

 ですので、太極拳には太極拳の抖勁があるのでしょうし、心意拳類(少林拳類)の抖勁とはそれは別です、と言うのがひとまずの私の謂いなのですが、さらに言うなら「そもそも太極拳で出来てる人、ほとんどいないじゃないか」という個人的な認識は正直あります。

 それは人口に膾炙しすぎてその辺の老人ホームでも公民館ででも行われているから実行者のほとんどが出来ていないのは当たり前。

 本当にちゃんと受け継いでいる先生は出来るとは疑っていませんが、80年代から日本でやっているようなグループの先生では出来ていないという話は直接当人から聞いたことがあります。

 よって、日本人の先生ではおそらくは殆ど出来ていないと言う気がしています。

 私がこのように思っている理由の一つは、実は上の心意系の抖勁と大いに関係があります。

 というのも、抖勁というのは、少し震えたとしか見えない程度の小さな動作での発勁のことなのですが、この発勁時の動きの大小というのは心意拳類代表の形意拳において明、暗、化という三段階で表現されたいます。

 そのため、この直系の流れである武術ではこの概念がそのまま適応されうるということはありだと思います。

 そして、この化という段階の「化勁」と言う言葉は太極拳でも用いられているのですが、これ、実は誤用ではないかと思われるところがあるのです。

 この話は、日本の中国武術研究家の第一人者であるK先生の著書によります。

 私自身、この先生の研究の大きな影響を受けており、その姿勢には常々敬意を抱いており、この先生の著書の数々を毎度愛読していなければ現在ここに至ることもなかっただろうと思います。

 このK先生の「君はもう拳意述真を読んだか?」が最近復刻しました。

 かねてから待ちかねていたので早速キンドル版で購入して拝読いたしました。

 これはもう、原本の価値も含めて中国武術実践者必読の書であります。

 原本「拳意述真」は形意拳、八卦掌、太極拳の三派を学んで、これらをひとくくりに「内家拳である」とまとめた当人、孫禄堂先生の著書です。

 この人のこの仕事が無ければ内家三拳という概念が中国武術界に定着することはなかったと言う歴史上非常に重要な人です。

「君はもう~」は、これをK先生が翻訳し、自分の解釈を交えた本であり、私の見解はこちらの著作に依っています。

 この本の中で、孫禄堂先生が元々持っていた化勁という概念は物事の深奥に迫ってそれを無意識に中和することだ、と言うように描かれています。

 また、全編に渡って「形意拳とはつまり中和の道である」ということが書かれています。

 拳を練ることで自己の存在が中和され、周囲の力が中和され、ついには天地との境目がなくなって天人合一する、ということだと解釈されるようなことが繰り返し、多くの禄堂先生の先人たちの証言として語られています。

 いつも私が書いている、自分が受け継いだ少林拳のコンセプトとまったく変わらないのですよ。

 これは時代的に見て、禄堂先生以前に内家拳、つまり道家武術という概念が確立されていなかったので、当たり前です。

 あえて大雑把に言うならこの時代はすべての民族功夫は少林拳にされていた。

 このことは陳式太極拳発祥の地、陳家溝でも証言されています。

 それがね、あえて禄堂先生の時点で強調されて、さらに太極拳の形で一般層への普及が進んだ段階で誤解が広まったのではないかという気がします。

 元々禄堂先生らのように少林拳の名人だった人達でもない、少林拳未経験者が太極拳だけやって「外家拳はこうだ、少林拳はこうだ、ヤクザがやってる南派は暴力だ」というようなポジション・トーク的認識を広めていったのではないでしょうか。

 ここで、本当に出来る一部の先生とその生徒たちの一般素人との間で認識が大きく開いたのではないかと思われます。

 さらに、それが外国である日本に入ってきた時にこれは完全に補強されて一様には覆しがたい強固な偏見として固まってしまったのではないかと思われます。

 その理由の一つに、実はこのK先生も噛んでしまっています。

 この先生、一部識者に「研究は一流だが実力は三流」と評されてしまうくらい実技が問題ありの先生です。

 資料の収取と翻訳において日本でもっとも功績のある先生が「発勁はバネ力だ」などと言って手首のスナップを発勁だと個人解釈して発表したり、「畜勁して発勁するなど、出来るというならやってみろ!」と古典の書物に雑な言いがかりをつけたり「結局発勁とは上手にやっていると言うだけで発勁というものなどない」と言うようなことを自分の意見として発言してしまったりしているのです。

 これには頭を抱えざるを得ない。

 最大の紹介者が、紹介したうえで「でも、こういうの全部無いですから」とまとめてしまっているのですから、これは誤解が広まります。

 ましてや、この先生が日本での草創期に太極拳を広めた団体の最初期の会員であるのですから、これはどうしようもない。

 この先生の中では、孫禄堂や李書文と言った歴史上の名人が、彼の身近にいた大学空手部で強かったセンパイと対等くらいに並べられているのですから、矮小化極まりない。

 動乱の時代の高名な武術家はみんなものすごく強かった、と書きながら一方で、それを大学空手部の先輩と同じくらいである彼のように著述しているのです。

 これでは結論として読者は中国武術の独自性を感じることはできません。  

 どうしてもどの世界のパイオニアにも功罪は伴うのでしょうが、現代の日本における中国武術への誤った認識のほとんどはこの時代の先生がたに由来しています。

 この辺りを覆して、本当のことを発信してゆくことを我々現代の伝承者が続けて行かないと、偏見はいつまでたっても解けないことでしょう。

 それをするには、私の場合にはどうしても、太極拳と言う最も影響力の大きい中国武術の近代史を解体してゆかないとならない気がしています。

 おそらく近いうちに、K先生の著書を土台にした前の時代に起きた中国武術のパラダイム・シフトを個人解釈する文章を書くことになると思います。

 おそらくは現代太極拳に対してだいぶん不利益であったりする内容になることでしょう。

 そのこと自体を目的にしている訳ではないのですが、いまの時代のパラダイム・シフトを迎えているに当たって、是正することは是正しないとその先に真実を届けることが出来ない。


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