今回はようやく化勁について語れます。
なぜようやくかと言うと、これまで繰り返してきたように「日本人の中国武術への認識が歪んでいるのはその中核にある太極拳が間違っているからではないか」ということが趣旨であるからです。
そのとっかかりとして、そもそも太極拳で重視されているコンセプトの化勁という物がまず間違っているのである、ということを提示したく思っているのです。
その化勁、元々は郭雲深先生が言い出して孫禄堂先生が広めた言葉が誤用された物であるらしいとK先生が書いていることまでは書いてきました。
ここから先は、その流れでの郭大師の化勁とは何かの説明となります。
曰く「化勁とは、神を持って虚に還ることであり、またこれを洗髄の功夫とも言う。暗勁を練って至柔、至順に達した物である。これを柔順の極まるところ、暗勁の終わりと言う」
つまりは、暗勁の極まったところを郭先生は化勁と呼んでいる訳です。
発勁が出来ない人間が居ついたり浮ついたりしている相手のバランスを崩すことが化勁ではありえません。
まずは発勁ありきの話です。
では、どうしてこの誤用が始まったのでしょうか。
思い当たるところがあります。
郭大師の説明を続けますと「柔勁の終わりとは化勁の始まりである。そこで再び向上の修練を加え、練神環虚を用いれば、形と神はいずれも杳として測りがたく真に道と合して無味無臭に至る」とあります。
はい、これが化勁です。
つまりは、儒教で言う天人合一、タオで言う無為自然のことを言っているのでしょう。
このことについて郭大師は「修練につとめ、間断することなく、練って至虚に達すれば、身にその身なく、心にその心なく、まさに形と神とがともに妙となり、道と合する真の境地に到る」とあります。
ほら、タオと合すると書いてあります。
さらに続けて曰くには「以後は虚を練って道に合し、よく寂然不動となる。こうなれば感じるだけでことごとく通じるようになる」とあります。
この寂然不動、易にある言葉であり、また禅語でもあると言います。
万物がまだ発生しておらず、同時に自在に変化して止まない無限の働きである、の意であるそうです。
これ、ただ静かで動いていない様と取るだけではないところが深い感じです。
動いてないし静かなのですが、同時にその中に動きが満ちているという状態だというのです。
終わりであり、始まりであると強調しているのはこのためでしょう。
禅の瞑想状態を表した言葉であると同時に、太極その物ではないですか。
ここから太極拳と化勁の親和性が生まれたのかもしれません。
郭大師はこのように、化勁という物を禅的な集中、すなわち無我の状態のように伝えています。
明鏡止水、何かが起これば無意識のうちにそれが映ると言った境地のことなのではないでしょうか。
次回からは、このように大きな意味を持った形意拳の極意がどうして表面的なお相撲技のような物に誤用されて行ったのかを推測したいと思います。
つづく