さて、以前に孫禄堂先生の練習ノートに書いてあった「転法輪」の気功について書きました。
禄堂先生はこれによって成ったとあるにも関わらず、万金をもってしてもこれを余人には教えない、と明記しています。
値千金という言葉がありますが、それより価値が高い万金を積んでもダメなのです。
これはつまり、内家拳武術を一般に広く公開はするけれども中核の所は教えないと言っているということです。
いわゆる内家拳幻想、および人口に薄く広がっている物のまるで真伝を得ている人を見ないと言うことの理由の背景がここにうかがえるように思っています。
内家拳という概念を構築して広めた当本人の先生がこう言っているのだからおよそ間違いはないでしょう。
逆に言うなら、秘伝の所をこうして隠すからこそ表層の所は大々的に公開できるのだということかもしれません。
なにせそれ以前は一般人が趣味として武術をするということはそれほど盛んでは無かった。
孫家の直系の有名先生は「貧乏人が武術をする必要はない。金持ちになったら習いにくればいい」と明言したと言います。
そのようにして、秘伝としてしまった転法輪とは一体どのような物なのか、というと、詳細はともかく、大要は恐らく理解が出来ます。
というのも、それはその名の通り法輪功であって、その土台が分かってさえいれば理解できるようにこの孫禄堂先生のノートには書いてあったからです。
転法輪とはつまり、分かりやすくいうなら小周天のことです。
道家武術という概念を禄堂先生が作って広める前まではタオの気功で小周天と呼んでいなかったのかもしれませんが、禄堂手記に書いてある「あぁしてこうしてこうするのだ」という文章を読むと、それが私たちがしている小周天であることが分かります。
この小周天、各派によってやり方や順序の違いは恐らくあるのでしょうが、私たちの派ではまず法輪気功をして各法輪(チャクラ) を活性化させたあとで、その法輪から法輪へと決まった方法で気を巡らせて小周天を行うという方法で行います。
仏教武術の法輪気功から法輪を用いての道家的小周天になるという、中国武術らしい仏道合一の文化観がそこにあります。
老釈論の影響があるのかもしれません。
この小周天が出来れば、武術としての段階としては充分だ、というのが師父から教わったことです。
その先の大周天の段階に関しては、純粋に気功、瞑想の領域となります。
なるのですがしかし、その段階のことを禄堂先生は化勁の段階と書いています。
これは禄堂先生だけが言っていることではないようで、それ以前の禄堂先生に影響を与えた先生方の言葉を禄堂先生自身が集めた語録を見ても多くの先生が形意拳(心意拳)とは中庸の道であり、中和の道であるとしてタオ的、ないし仏教的瞑想の物であると語っています。
生き方、ライフスタイルとしての中国武術と言う物がそこで語られています。
にもかかわらず、それを得た禄堂先生は「余人にはこれを伝えず」と言っている訳です。
一方で、広く一般人に門戸を開いて生徒を募集している。
これはどういうことでしょうか。
おそらく、それぞれの人には器がある。
それぞれの器に合わせたレベルに中身を入れないと、かえって器を損なうことになります。
そのため、それぞれの器にあったレベルでの中和をすることが大切なのである、ということでこれを巷間に広めたのではないでしょうか。
中和、中庸であり、無為自然、天人合一のための具体的なメソッドがこのような本物の伝統中国武術です。
しかし、いつもここで書いているように、人には根無し草の大衆が多く、また甘やかされた環境で生まれ育って自我が肥大して自己愛性人格障害に至っている人も多い。
先天的に発達障害を抱えていたのを原因に、人格障害になる人も沢山います。
発達障害の日本での発生率は三十人に一人だというデータを見たことがあります。
一方、最近のニュースでは、HSPは五人に一人いると聴きました。
また、メンヘラ社会になっていて、後天的に精神疾患になる人も沢山います。
そのような中で、まっとうな精神の器を保持している人というのはどれだけの数いることでしょう?
誰にでも同じ内容を与えることはできないわけです。
それぞれに器が違うので、器に会った容量と質の物を持って、その器を中和してゆかないと。
真伝を得て継承者になることだけが価値のあることではありません。
それぞれがそれぞれに自分の存在を中和できることは充分に大切なことでしょう。
逆に、深みを求めるばかりに過剰になってかえって器を損なうと言うことは多々あります。
いわゆる偏差、魔境の類です。
大切なのは自分自身を中和するということだと思われます。
武術の深みに迷い込むのではなく、自分を中和させる物として活用しながら、自分自身の個人の道を進むと言うことが中国武術との向き合い方としては良いのではないでしょうか。
それが分かれば、内功が余人には与えられないとしても、武術を行うことには価値があると言うことが納得いただけると思われるのです。
自分の命を十全に生きると言うことが、本質的にはもっとも重要な課題です。