採算を合わせる、ということが陰陽思想ということだと思っているのですね。
これは、気功師であり、伝統武術の伝人、師父として自分が学んできたことです。
ここに来るまでの道のりでもそうしてきました。
結果としてより大きなことを学ばせてもらえて、ここまでこれたのでしょう。
この、採算を合わせることの範疇が広いほど、あるいは陰陽の実践における腕が良いと見なされる、と言う言い方をすると少し誤解を招くかもしれません。
しかし、恐らくはそのような言い方は出来ると思います。
世界の採算を合わせる。
世界の釣り合いを取る。
その生き方をするには、自分に偏らない、ポジション・トークの価値観で生きないことが必要になってきます。
自我そのものがバランスを偏らせますので、これが薄い方が調整が上手くゆく。
だから我々は無為、無我という言葉を尊びます。
そしてそのようにして自我が薄くなって、世界の調和、中和、中庸をうまく取れている時、それは世界の一部として機能していると言って良いでしょう。
天人合一、無為自然です。
無我、無想とは仏教の言葉。
中和、天人合一とは儒教。
無為自然はタオです。
これによって、三道は一つとなります。これを中国仏教、あるいは佛教と言うそうです。
私たちが行っているのはこのような生き方の学習で在り、練習です。
だから、気功はスポーツではないし、中国武術は格闘技ではないと繰り返している次第です。
哲学の具体でなければ、その存在の根本が失われる。
その中和のためには、世界のバランスを感じて測る必要があります。
それが陰陽思想です。
過剰な方を減らして足りない物を補う。
自分自身に行えば健康法になるし、人に行えば医術になります。
政治で行ってきたのが儒教の歴史であり、社会の抑圧から自由になるための解脱思想として行ってきたのが仏教やタオです。
過剰な物を削るには力が要ります。
足りない物を補うには自腹を切る必要がある。
これらを行っていると、自分が消耗してゆき、自身のバランスを欠いてゆきます。
ですのでこれを埋め合わせなければなりません。
それをどこから調達すれば良いでしょう。
老師はこれを「天から盗む」と言います。
盗むとは穏やかではない。
これは中国語の表現ですね。毒、邪など中国の言葉は我々には非常に強く聞こえる物があります。
しかしそれは、我々が思う盗、毒、邪とはニュアンスが違う。もっと情緒性の薄いフラットな物であるようです。おそらくは漢字文化の感覚なのでしょう。
足りない物は天から得て、それが満ちたら次に回す。
この繰り返しでよりよく天地を回すようにという生き方を実践してゆくと、自分自身がより良い世界の一部になりえると言えるのではないでしょうか。
それは良い生き方ではないですか。
私には、自我の肥大よりもずっと好ましい物であるように思います。