では、それを読んだことも見たこともない私が、鬼滅の刃に関することを書いてみたいと思います。
読んでも見てもないのにどういったことかと言いますと、先日ラジオを聴いていた時に、COVIDが収まったら何がしたいですか? みたいなお話をやっていたんですね。
その中で、リスナーさんから届いたお便りの内に、子供を連れて旅行に行きたい、という物がありました。
なんでも、鬼滅の刃に登場するキムツジムザン? キブツジ? なんかそういうキャラクターがアジトにしている隠れ家のモデルになったっていう旅館があるんですって?
この、キブツジかキムツジはたぶん悪者なんでしょうね。
そいつが居るそこに子供を連れて行ってあげたいって言うお話だったんですけど、そのラジオのパーソナリティさんは鬼滅の刃をちゃんと勉強してたんでしょうね、「キブツジムザンが居るんだったら子供は怖いんじゃないかな」って言ったんですね。
確かに、まったく知らないけどどなんかそういう悪者の鬼みたいのが潜んでる旅館って、お化け屋敷ゲームのマップみたいでわくわくするけど怖そうですよね。
てか旅館自体なかちょっと怖いし。
つか私はホテルも実は少し怖い。
いまでも。
そういう旅館×キムツジムザンにさらにひねりを加えて二倍にして2000万パワー、みたいのってすごく怖そうです。いや意味わからんですけど。
でね、キムツジムザンの基地だから行きたい、っていうのと、キムツジムザンが居るから怖いっていうのだったら、怖いって言う方が作品楽しんでるんじゃないかな、って思うんですね。
いずれ小さなお子さんも理解が進んで感覚が変わるんでしょうけど、マンガの悪者が怖いって思える感覚はたぶん不可逆な物だと思うので、怖いと思う間を大事にするのはいいことのような気がしました。
私が小さい頃は、ウルトラマンは地元の関西にはいないけど東京にはいると思ってました。
だから毎週ガソリンタンクが爆発されたりビルが壊されたりして東京は大変だと思ってましたし、自分が寝た後の夜のニュースでは今日はどこに怪獣が出たかというのを扱っていると思っていました。
口裂け女が出たので集団下校をするというような時代でしたしね。
でね、そういう想像と現実の区分の無さと言う物が、人間として何か重要な物を作るんじゃないかと思うんですね。
神話や寓話と言うのはそういう物でしょう。
人の心の滋養となる物の気がします。
だから幼少期に、沢山の良質な物語と触れることはとても重要なことであるような気がします。
そしてその時期を過ぎて大人になったときに、まだそれだと今度は「迷妄に浸ってるんじゃない! 目を覚ませ!」ということを私は言い出すんですよね。
これは一対となってるのではないですかね。
子供の時に沢山物語を吸収して、それが心の実になっていれば、逆に薄い意味でフィクションに耽溺する必要がなくなる気がする。
これね、私の中でね、いまもういい大人のごついおっさんなんですけど、自分の中に「蒼月潮の味方でいられないような人間になるような生き方はしたくない」っていうのがずっとあるんですよね。
ギャングやったり二足の草鞋の保安員をやったりとストリートのダーティなところで生きてきましたけど、だからこそというか、最後のところで必ずこの「蒼月潮」の存在が私の中にはあるんですね。
これは、うしおととらグッズを太枚はたいて身の回り埋め尽くすようにするとか、コスプレしたり同人誌活動をするとかそういうことじゃないんですよ。
それは「迷妄から目を覚ませ!」なんですよ。
そういう形式じゃなくて、滋養の部分を心に吸収しているかどうか、ということだと思うんですね。
それを無くしてただの陰湿で我儘な引きこもりのオタク野郎になると、潮ってたぶん「お前は、自分が嫌いなんだな」って言うじゃないですか。
そうじゃないんですね。
彼に対して顔向けできなくなるような生き方はしたくないっていうのは。
ちゃんとまっすぐに、太陽と潮に向き合って生きていくことに、グッズもアニメも必要ないんですよね。
それは心の問題ですから。
でね、もしグッズを纏って自分とヒーローを同一視しさせてごっこ遊びで生きてしまうとね、それはお面ライダーマンになってしまうんじゃないかという気がするのですよ。
自分が嫌いじゃないなら、自分を嫌いにならないで済むように、自分の命を立てる生き方をしていかないとね。