前回は私の本道である仏教圏の身体哲学からの知と言う物へのアプローチをご説明しましたが、今回はまた西洋哲学に戻ります。
ある哲学者の先生の受け売りになるのですが、人間とは平面でしか物を観られない、と言います。
これは脳の構造上の問題です。視覚は平面であり、立体では物を観れていないですよね。写真や絵のようにしか我々は本来物を観ていません。
ですが、その二次元画像の読み方に慣れているから、これを立体であると脳内で補正して理解することが出来る訳です。
逆を返せば、この脳が補正しているような状態に意図的に絵を書いた物が、二次元なのに過剰に三次元に見えるというトリック・アートになるわけですね。
それらに驚かされることで我々は、無意識のうちに二次元の画像を三次元に解釈していたのだなと思い知らされます。
この時に働いている、経験によって心の内で二次元を三次元に変換したような物のことを「心象」と言います。
この心象を結ぶ力を知性、悟性と言います。
二次元だけどこう見えるってことは三次元ってことだな、という画像の情報=知識の断片を結び付けて全体を想定する力のことですね。
知性、悟性と言い方が違うのは、基の哲学用語の言語によるものだそうです。
英語圏での言語を直訳すると知性になって、ドイツ語圏での用語を直訳すると悟性になってと記憶していますが、あるいは逆だったかもしれません。いずれ内容は同じだと思ってよいようです。
実例を引用してみましょう。
さいころの表裏の面の数字を足すと、7になるということは皆さんご存知だと思います。
これは情報、知識、知ですね。
人から聴いたり、自分でサイコロに触って知ったりしたことだと思います。
クイズレベルの情報ですね。
知っているか知らないかと言う情報の有無の問題で、別に頭のよさとはびた一文関係ない。
ただ、バカの人たちはこのクイズレベルの知識を頭の良さだと勘違いして(あるいは愚民化教育によってさせられていて)いますが、そんなもんうちの隣の人の番地は幾つだとか嫁さんの靴のサイズはいくつだとか言うのと同じでまったく知性のレベルを計る時には意味が無い。
クイズという言葉は、もともと無意味だということだそうです。
さて、では、このさいころを、一面9つの壁に積んで、さらにそれが六面に向いたようなルービック・キューブ状の物を作ったとします。
この時に、自分が見られる面をすべて1にしましょう。
上になる面の数字は、2にしましょうか。
こちら側から見えるのは、この二面だけとします。
想像していただけましたか?
では、こちらから見えない、真裏の面の数字は総和は幾つになりますでしょうか。
54ですね。
こちらから見える正面が1×九つであるから、1の裏にあるはずの6の目が9つあると考えて6×9=54と考えても良いですし、先に正面の数字が9であると考えて、1の裏面のはずの数字6は1の六倍の数字であるので、表面の総和である9を6倍したものなので54と考えても良いですね。
また、さいころの表裏の面の和は7なので、7が九つ分あれば7×9で表裏の総和は63となるので、そこから目に見える9を引いて7×9-1×9=54という順番で手続きを踏んでも良いですね。
キューブの上部に見える2の面の裏に関しても要領は同じです。
我々は、さいころの表裏を足すと7になる、という知識と、目に見える九つある、という視覚的認識を繋げて結ぶことで、裏面にある数字を割り出すことが出来ます。
これが知性ですね。
知識を結んで答えを想定する能力のことです。
このサイコロ・キューブのお話を次回ではさらに展開しましょう。
つづく