さぁ、今回からは羽海野チカ先生が、いかにマッチョかということを書きますよ。
彼女の出世作と言えばもちろん「ハチミツとクローバー」です。
この作品は、美大生男女の群像劇となっています。
それでマッチョと言うと、芸術とは! と言うことを追求する苛烈な魂の苦しみを描いた物かと思われるかもしれませんが、パッケージとしては恋愛コメディです。
では、なぜこれがマッチョかというと、芸術を追求する作品ではないからです。
結局のところ、この物語においては美大生の追求先と言うのは、商業芸術、もっというの就職先に帰結します。
ようするにこれ、進路の話なんですね。
美大と言うのは、芸術を追求する場所では無くて、進路を決める段階のモラトリアムの期間と言う意味で機能しています。
その在籍している、田舎から出てきた純朴な少年が主人公です。
優しくておっとりしている彼は、結論から言うと、本来田舎でそのまま暮らして居ればよかったような子なんですよ。
こう書くと残酷に聞こえると思いますが、羽海野先生はそれを明確に書くんですね。
彼を、彼の周りの社会カーストにおける最下位として残酷に描写するんですよ。
才能は大したことないし、生産性も高くない。
この二つが作中では重要な価値基準となっています。
そのために、まず作品初期でもっとも成功した人間として、バイト先の畜産業界で信頼されたあまりそちらで生活を立てるようになったセンパイというのが、英雄として描かれます。
彼は本筋には一切関わらないのですが、まず最初に「もっとも正しいこと」として彼を描いた上で、そうじゃない人々のもらとリムを描いてゆくのです。
この主人公の少年が、本来そういった場所に居るべきではないはずの人だったのに、なぜここに居るのかと言うと、彼はシングル・マザー家庭の育ちで、その母親が再婚したために家に居たくなかったからなんですね。
元々そういうイレギュラーな場所に転がり込んできているんです。
群像と書きましたが、周りにいるのは圧倒的な天才ですでに大金を稼いでいる先輩や、美術センスはそこまででは無い物のとにかく世慣れしていて小器用にお金が稼げる先輩などの、作中価値観における上位者ばかりです。
そんな中で最下位に居る主人公君は、美大の天才美少女に恋をします。
これが縦糸になります。
この美少女は主人公と合わせ鏡になっていて、本来は天才すぎて人里に出てくるべきではないタイプの人でした。
しかし、こちらでもまた家庭の問題があって、そこから避難させられるようにして美大に入ってきていたのでした。
似た環境だと言えますが、相手は圧倒的な天才、これは話にならないのです。
しかも、天才の先輩がライバルになってしまいます。
その絶望的な流れの中で、最終的にどうなるかと言うと、天才少女は天才すぎて恋愛に結論を出さず、モラトリアムのタイムアップが来てしまいます。
同じ時間を過ごした身近な好人物として、彼女は田舎に帰る主人公に、四葉のクローバーを挟んでハチミツで味付けをしたサンドイッチを手渡して送り出します。
主人公は夜行列車の中でそれを噛みしめて涙を流しながら「何も叶わなあった。それでもこの数年間には意味があったんだ。意味があったんだよ!」と慟哭して物語は終わります。
実はこの最後のガジェット「ハチミツとクローバー」サンドには、重要な伏線がありました。
というのは、この天才少女、連載を通して繰り返し、料理センスが致命的にない、ということが描かれ続けているのです。
破壊的に不味い料理しか作れない。これが一つ。
もう一つは、最近作者の羽海野チカ先生がツイッター上で明かしたことなのですが、彼女は人の手作り料理が食べられないということなのです。
この二つを前提に「ハチミツとクローバー」サンドを見れば、答えは明白、結局相手は天才すぎて何一つ意思が通じないのだという圧倒的な存在の差と、現実的には拾った雑草で作った不味い料理を与えられて落魄して都落ちするということの象徴ではないですか。
そりゃ泣きながらかじりつきますよ。
不味いんですよ、そのおみやげ。
どう頑張っても通じ合うことの無い二人だったということを味覚で思い知らされている訳です。
実に過酷で、厳しい表現ではありませんか。
こういった表現を、味覚と言うフィジカルで描いたことも含めて、羽海野先生のマッチョ性は計り知れないという話を、次回も続けたいと思います。
つづく