前のかきこみで、踊る側と踊らせる側について書きましたが、ここで気になることがあります。
私もへっぽこながらダンサーの一人として踊る側です。
だとすれば、これは間違った生き方なのでしょうか?
考えれば、ただ無一物で生きることを理想とするところから見ると、踊ったりなんだりはずいぶん色があるように見えます。
ではそれは過ちなのでしょうか?
仏法で言う執着が、ラテン的パッションであるような気もします。
しかし、そこで絶対的な優劣をつけないのが陰陽思想です。
執着もパッションもその時々で陰になったり陽になったりするだけで、正否はもっと大きな枠組みそのものにあります。
いや、正否そのものさえもその大きな陰陽の枠組みの中でのことになってしまいます。
そのように、この「相対的に物を見る」という思想は大変に大きなものです。
絶対的な物を設定しない。そうやって自分を安心させようとしない。
何が正しいとか間違っているとかは、簡単に言わずにただその場ごと物差しを変えて分類してゆくだけです。
そこに普遍性があるような気がします。
相対化し、分類してゆくことは、透き通ることに繋がると考えます。
混沌、ごちゃごちゃした混ざり合った状態が、重い物は下にたまり、軽い物は上に登ることで分離して透き通るというのが陰陽思想です。まぁあれはこっちの引き出し、あの小物はこっちのケース、というように整理していくわけです。おそうじみたいなものです。なるほど、荘子の思想。
そのような訳で、その思想の体現である我々の武術では、透き通ること、きちんと立つことというのが重視されます。
自立です。
この自立が術になります。
この術の反対にあるのが技です。
特に、西洋体育や武道、格技などの技においては、時に自立しないことが求められる場合が多く感じます。
これは、術というのがその行為そのものを目的とせず、あくまで思想や思想の体現である立つことが先にありきで、あとからそれを武の術に発展させたためだと思います。
あくまで禅がありきで、禅のベクトルでの座禅に対する動禅としての武術です。なので、禅という枠を離れることはありません。
それに対して西洋スポーツの歴史を紐解くと、古代ギリシャのオリンピック競技というのはすべて戦争の技なのだと言います。
レスリングやボクシングはもちろん、走る、障害物を飛び越える、円盤や砲丸や槍などを投げる、それらを複合化した十種競技などはみな、戦場での兵士の能力そのものです。
初めはそれらの調練の高揚行為や示威行為として行われていたことが、次第にそのものが先鋭化し、歴史が進むにつれて競技そのものが自己目的化した複雑なスポーツになってゆきます。
ゴルフやテニス、野球やバスケットボールのような現代的なスポーツには、戦争の影は非常に薄くなっています。
それらのスポーツに共通して多く見られるコツが、体重を投げ出して、その軌道を制御する、という行動です。
例えば野球で言うなら、バッティングやピッチングという基礎行為がもう、体重を投げ出してそれを停止させるという運動の延長にあると思います。
ダンクシュートの最中に空中で失速してしまえば、正確にフープを捉えることは出来ないでしょう。
この、投げだした重心の軌道の制御というのが、スポーツの独自の部分です。
これはおそらく、走るという行為を土台としてその上に乗せる形で運動技術が派生しているためだと思われます。
格技で言うなら、レスリングのレッグダイブ(タックル)やボクシングのパンチも、足で地面を蹴って身体を投げ出して対象に体重をぶつける、預ける行為です。
これらの行為を我々の武術では決してしません。
表演武術では走っていって勢いをつけてジャンプすると言う運動が多数みられますが、それこそが様板武術がまさに体操競技を土台に作られたという構造上のポイントです。
地面に根を張ったようにしっかり立つという行為はおそらく、純粋に運動の結果だけを求めたら不合理なのでしょう。まずは立禅であるという発想が無ければ行う必要は必ずしもないのではないでしょうか。
ある沖縄空手の先生の本を読んだことがあります。
その先生は沖縄の方で、現地の古老たちの間を歩いて古伝の空手を体得して行ったと言う方なのですが、その研究の結果分かったのは、古老たちが口をそろえて那覇の手は中国から来たもので、首里の手こそが沖縄で発展した独自の物だと言っていたとのことだそうです。
その首里の手というのは、体重を投げ出してそれを相手にぶつけてそのまま貫通させるようにして威力を出すと言う物のようでした。
これは確かに、中国少林拳的な物ではまったくありません。
中にはこのような独自進化を遂げた物のもあるかもしれませんが(なにせ四百以上の門派があります)、決してメジャーな物ではありません。
どちらかというと、日本の古武術に見られることが多い身体の遣いであるように思われます。
柔術やお相撲、剣術も、このように体重の支えを抜いて使うという先生が多くみられます。
この発想は、自分の内側にしっかりと立った勁という力を作っておいて、完全に安定させておいてその勁で動くという発想とは真逆と言ってもいいでしょう。
そのために、不動の状態で相手を打つ中国武術の動作は、多くの日本人からは体重の乗っていない奇異な動きに見えます。
この、体重を浴びせる沖縄空手や日本古武術と同じ仕組みなのが、ブルース・リーのワンインチ・パンチです。
彼の武術は立つことを否定し、ボクシングやフェンシングの体動を参考に創始されたものです。
その根本構造が、パンチを打つときには体重を移動させてぶつけると言う技術に至りました。
結果、これらの体重投げだし系の運動は、常に動き続けることになります。
上下に身体を揺すって小さくジャンプを繰り返すのはそのためのアイドリングです。
中国武術はそれをしません。
もし、座禅の最中にそのように身体を揺すって居たらどうなるでしょう?
おそらくは警策でバシーとやられます。
あるいはお茶だったら?
やけどをしますね、きっと。書であったなら字がうねってしまうでしょう。
これが、動かない物を維持したまま動くという矛盾であり、そこからスタートした行であるということです。
この矛盾を解決した行為を術と言います。
それは決して、目的を達するためにその行為そのものをするという技とは違うことなのです。
目的はただ静かに立つこと、立っていられる自分であろうとすることです。
パンチやキックではありません。
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少林の術と格技の技
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