前回は産業革命によって、現代人の肉体と言うのは人為的に作られたということを書きました。
それは均一化をもたらしましたが、同時に専門性の喪失をも意味していました。
産業革命以前の身体操法を古武術などと呼ぶのはこのためです。
以後の物は現代武道と言いますね。
これはつまり、素人の肉体に適した平均化のための教育を「武道」と呼んだということです。
よって、現代武道には秘伝は無い。
近代化の時代に生まれた太極拳も同じく現代武道であり、秘伝は存在しない、と言うのは中国武術研究の先人、K先生の説です。
このように、それ専門の肉体を前提とせず、誰にでも出来る開かれた物のことを「大衆化された」と言います。
剣術は大衆化されて剣道となり、柔術は大衆化されて柔道となりました。
このようなことがなされた明治から昭和というのは、プロと言う物が軽蔑された時代でした。
平均化され、大衆化された物が良い物であり、特別な訓練をされたプロだけに可能な物は頑迷な旧弊の物として忌避されました。
そのような流れに変化が出たのは、武術の世界で言うなら90年代の新古武術創作以降からではないでしょうか。
あるいはその萌芽は80年代の中国武術ブームにあったかもしれません。
これらはある種の懐古主義、失われた文明に対するロマンのような物として享受されていたものかもしれません。
上記の二者は共通性の高い土壌で広まった物ですが、両者には本来決定的な違いがありました。
というのは、そもが新古武術というのは産業革命以前の術を現代の視点から獲得できまいかと言う創作の試みであったのに対して、中国武術と言うのは本当にそれを継承している物であったからです。
これには、中国と言うのが資本主義圏ではないということと、文化大革命という特異現象が関わっていることは間違いないでしょう。
このため、似通った両者は消費者の間では認識が混同されながらも、現実にはまったく違ったものとしていまに至っています。
私の仕事というのは、この辺りのことを明文化して発信しつつ、古伝を継承して引き継いでゆくということになっています。
心ある方々にはぜひ、この辺りの現在の混沌を理解していただき、真実の普及にご賛同いただけたらと思っています。
その上で結論として申し上げたいことは、現代人の身体操法というのがそもが権力によって規定された物であるのに対して、古伝の身体操法というのは自らを自由にするものであるということです。
そここそが私が古伝を由とする最大の理由です。
まずは肉体から権力に支配されていては、これは中々自由に生きるというのは難しいかもしれない。
霊肉一致の言葉をもって、現代人が近代権力の拘束から離脱して自由になり、各々の多様な生き方への回帰に向かってゆければと願う次第です。