さてここまでこの歴史シリーズでは、明末清初の鄭成功をまず皮切りにここまでやってきましたが、今度は実に難しい番外編、沖縄編を試みてみたいと思います。
なぜ難しいかというと、そもそもが沖縄って日本なの? 中国なの? という問題があるからと言うのが一つ。
それからもう一つはこの場合、空手の歴史に触れることになるのですが、私自身そちらに関してもまったくの門外漢ということです。
なのでこの記事は(も、か)あくまで伝聞の集積であることをご理解ください。
以前に紹介した首里手の先生の本に書いてあったことや、各方面空手の先生方が発表されていることが基本ソースになっております。
では、前置きが長くなりましたが初めてみましょう。
まず、沖縄は本来は琉球と言っていた、というところから始めたいと思います。
平安末、日本列島本土では、渡来系の朝廷に対して土着系の武士(悪党)が反旗を翻してましたが、この時代の武将に、源為朝と言う人がいます。
この時、本土から離れた九州はまだ支配が危なっかしいので、この為朝も鎮西を名目に九州に乗り込みました。弓の名人だったので大いにその武威を振るったようで、鎮西八郎とあだ名されるようになります。
こののち、保元の乱に参加するも敗北、伊豆大島に島流しになってしまいます。
しかし、今度は流された先の伊豆諸島を支配してしまったというから実に豪傑です。
本土の記述ではこれがバレて処刑されるのですが、この為朝、このまま琉球に逃げ延びたという話があります。
この為朝が、逃げ延びた先で興した国が琉球だと言われており、この話は一応正史であるとされています。
一応歴史上の公式文書としては、隋の時代に「福建沖の島に琉球という物がある」と記録されているのが最初だと言われています。
日本側の記述としては、奄美王島には日本の分庁が置かれていたため、そこまでは日本の領土だとみなされていたのですが、それより沖の琉球にはあまり意識が行っていなかったようです。
このように、中国側からは福建の東、日本からは奄美の西くらいに思われていて、どちらにもあまり相手にされていなかった感じなのですが、14世紀に有名な中山王というのが現れて、中国側に貢物をしたところから、中華帝国の中の小国という認識が始まったようです。
しかし、江戸幕府が始まり、やがて島津藩が琉球に攻めてきます。
島津および幕府はここが日本国の属国だと主張し、直轄を始めます。
かくして琉球の二重統治が始まりました。
一方で中華帝国の一端で在りながら、同時に島津に徴税されるという状態です。
この時代に禁武政策がすすめられ、武装解除が行われました。
その支配状態で素手で戦うために行われていたのが空手です。
と、いうのが長い間定説とされていたのですが、最近耳にしたいくつかの説はそれとは違うものでした。
もちろん、そのような空手もあるのでしょうが、それはむしろ例外的な物だったといいます。
実は、体系化された空手などと言う物は存在しなかった、というのが何人かの琉球空手の先生の主張です。
もともと、中華帝国の一部であり「なんか福建の東に人が住んでる島あるね」といった感じだった琉球において、海賊や貿易船など、大陸人の出入りは頻繁に行われていました。それらの人々をたどる形で、福建に渡って拳法を学び、日本に持ち込んだと言う説があります。これは文字通り唐渡りの手、唐手ですね。
また、琉球に停泊中に土地の大人の食客になった人に、地元の若者が習ったという話もあります。
後者の場合は必ずしも体系化されたものではなかったというのがこの説の面白いところです。
元々、江戸の辻斬りではないですが、琉球にも腕試しの文化があったのだそうです。
とはいえそこは刀狩りがされていますので、素手で試合をするわけです。
そのような物のことを手と言ったそうですが、これはつまり「棒とか石とか無しだ! タイマンだ! 素手でこいや手でぇ!」と言ったような意味ではないでしょうか。
そういうステゴロ野郎たちが、あっちの漁村には蹴り技の上手い老人が居るとか、向こうの島には島相撲が強い大男が居るとか聞いては手土産を持って技を習いにいっていたそうです。
そうやって、各自が自己流で色々な師匠に習ったり工夫をしたりした技を編み出していった物の総称が琉球拳法なのだと言います。
これはいわばアメリカなどでの総合格闘技の選手のような状態ですね。
しかし、流儀武術という概念が強かった日本人はそのような解釈はせず、明治になって空手を体系付けられた武道に改変しました。
当時の武道会の最先端技術であったそれらを真っ先に取り入れたのは、剣道家や柔術家です。
そのため、剣道や柔術の足さばきが持ち込まれました。
こうして単にステゴロの喧嘩殺法だった手、あるいは中国から持ち込まれた唐手は空手道と名前を改められました。
本土の空手道はその後もスポーツとしてのルールが作られたり、サンドバッグやグローブがもちこまれたり、キックボクシングそのものになったり果ては寝技まで行われるようになり「それが空手と言えるのか!」と言う状態になりましたが、そもそもカラテとは歴史的にみるとそういう物だったようなのです。
一対一、素手、そこが琉球拳法のプリミティブな本質であるようです。
なぜ難しいかというと、そもそもが沖縄って日本なの? 中国なの? という問題があるからと言うのが一つ。
それからもう一つはこの場合、空手の歴史に触れることになるのですが、私自身そちらに関してもまったくの門外漢ということです。
なのでこの記事は(も、か)あくまで伝聞の集積であることをご理解ください。
以前に紹介した首里手の先生の本に書いてあったことや、各方面空手の先生方が発表されていることが基本ソースになっております。
では、前置きが長くなりましたが初めてみましょう。
まず、沖縄は本来は琉球と言っていた、というところから始めたいと思います。
平安末、日本列島本土では、渡来系の朝廷に対して土着系の武士(悪党)が反旗を翻してましたが、この時代の武将に、源為朝と言う人がいます。
この時、本土から離れた九州はまだ支配が危なっかしいので、この為朝も鎮西を名目に九州に乗り込みました。弓の名人だったので大いにその武威を振るったようで、鎮西八郎とあだ名されるようになります。
こののち、保元の乱に参加するも敗北、伊豆大島に島流しになってしまいます。
しかし、今度は流された先の伊豆諸島を支配してしまったというから実に豪傑です。
本土の記述ではこれがバレて処刑されるのですが、この為朝、このまま琉球に逃げ延びたという話があります。
この為朝が、逃げ延びた先で興した国が琉球だと言われており、この話は一応正史であるとされています。
一応歴史上の公式文書としては、隋の時代に「福建沖の島に琉球という物がある」と記録されているのが最初だと言われています。
日本側の記述としては、奄美王島には日本の分庁が置かれていたため、そこまでは日本の領土だとみなされていたのですが、それより沖の琉球にはあまり意識が行っていなかったようです。
このように、中国側からは福建の東、日本からは奄美の西くらいに思われていて、どちらにもあまり相手にされていなかった感じなのですが、14世紀に有名な中山王というのが現れて、中国側に貢物をしたところから、中華帝国の中の小国という認識が始まったようです。
しかし、江戸幕府が始まり、やがて島津藩が琉球に攻めてきます。
島津および幕府はここが日本国の属国だと主張し、直轄を始めます。
かくして琉球の二重統治が始まりました。
一方で中華帝国の一端で在りながら、同時に島津に徴税されるという状態です。
この時代に禁武政策がすすめられ、武装解除が行われました。
その支配状態で素手で戦うために行われていたのが空手です。
と、いうのが長い間定説とされていたのですが、最近耳にしたいくつかの説はそれとは違うものでした。
もちろん、そのような空手もあるのでしょうが、それはむしろ例外的な物だったといいます。
実は、体系化された空手などと言う物は存在しなかった、というのが何人かの琉球空手の先生の主張です。
もともと、中華帝国の一部であり「なんか福建の東に人が住んでる島あるね」といった感じだった琉球において、海賊や貿易船など、大陸人の出入りは頻繁に行われていました。それらの人々をたどる形で、福建に渡って拳法を学び、日本に持ち込んだと言う説があります。これは文字通り唐渡りの手、唐手ですね。
また、琉球に停泊中に土地の大人の食客になった人に、地元の若者が習ったという話もあります。
後者の場合は必ずしも体系化されたものではなかったというのがこの説の面白いところです。
元々、江戸の辻斬りではないですが、琉球にも腕試しの文化があったのだそうです。
とはいえそこは刀狩りがされていますので、素手で試合をするわけです。
そのような物のことを手と言ったそうですが、これはつまり「棒とか石とか無しだ! タイマンだ! 素手でこいや手でぇ!」と言ったような意味ではないでしょうか。
そういうステゴロ野郎たちが、あっちの漁村には蹴り技の上手い老人が居るとか、向こうの島には島相撲が強い大男が居るとか聞いては手土産を持って技を習いにいっていたそうです。
そうやって、各自が自己流で色々な師匠に習ったり工夫をしたりした技を編み出していった物の総称が琉球拳法なのだと言います。
これはいわばアメリカなどでの総合格闘技の選手のような状態ですね。
しかし、流儀武術という概念が強かった日本人はそのような解釈はせず、明治になって空手を体系付けられた武道に改変しました。
当時の武道会の最先端技術であったそれらを真っ先に取り入れたのは、剣道家や柔術家です。
そのため、剣道や柔術の足さばきが持ち込まれました。
こうして単にステゴロの喧嘩殺法だった手、あるいは中国から持ち込まれた唐手は空手道と名前を改められました。
本土の空手道はその後もスポーツとしてのルールが作られたり、サンドバッグやグローブがもちこまれたり、キックボクシングそのものになったり果ては寝技まで行われるようになり「それが空手と言えるのか!」と言う状態になりましたが、そもそもカラテとは歴史的にみるとそういう物だったようなのです。
一対一、素手、そこが琉球拳法のプリミティブな本質であるようです。