離島から新宿に家出してきてトカレフを拾った少年は、サリンジャーをいつも読んでいます。
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」です。
「殺し屋はヘミングウェイを読む」というのは私たちの世代の記憶に引っかかっていることですが、ハードボイルドではありません。彼はサリンジャーです。
キャッチャー・イン・ザ・ライは私たちの世代だと「ライ麦畑でつかまえて」の邦題が定番でした。
キャッチャーというのは、野球のポジションのことではなくて捉まえる人を意味しています。野球の小説ではないんですね。
この小説では、都会を彷徨う少年が、大人達や世間の醜さに憤慨しながら、自分より年少の子供たちを心配する様が描かれています。
こんなにもひどい世の中のがけっぷちで自分は待機していて、遊んでいる子供が崖の方に向かったら、それを捕まえて戻してあげるような生き方をしたい、と願っているというのがこの物語です。
映画におけるメッセージが託されています。
主人公が都会で二つの場所の人達と出会います。
一つはでっちあげ記事を書いている売文家の大人。
もう一つは、実は共に自分より年少だったことが後に判明する、都会で子供たちだけで生きている姉弟です。
大人たちのインチキな仕事の手管に加担することで、主人公は生活の糧と場所を得ます。
一方で、姉弟とのかかわりによって、彼は別の方向の力に寄り添ってゆくことになります。
この姉と言うのは実は天気の巫女というフィクショナルな存在で、歴史上散見されたシャーマンだということになっているのですが、要するに人柱の人身御供で、雨乞いの逆、天気の祈願を一定回数すると身体が透き通って天に消え去ってしまうと言う設定になっています。
この物語の中では、異常気象によってずーっと雨が降り続いています。
もう、数年単位で降るレベルなんですね。
これは当然、環境破壊による物です。
「もはや環境問題の対策には時間が残されていない」と言われていますが、物語の中の時間はそのタイム・リミットを過ぎてしまった先のお話なんですね。
先に書いた、大人たちの負債の取り立てが始まっているのです。
高度成長期、それに続く高度経済消費社会の大人たちが乱開発によって世界を破壊しつくした結果が、この環境問題です。
今年の夏も、ヒート・ドーム現象で沢山の命が失われました。
また、秋にはパキスタンで大洪水が起きて国土の三分の一が水没しました。
共に環境破壊が原因です。
さらに言うなら、COVID19の隆盛も、環境変化によるウィルスの変異速度が増しているためだとも言います。
つまり、今現在進行している世界の危機という物に対する監督の意思がこの映画だと言える訳です。
その結果の、銃撃事件。
いまの時代を予言していたかのようなすごい作品です。
子供と大人の間の時期に位置している主人公は、大人の生き方を学んでゆきます。
ヒロインの巫女と組んで祈祷によって雨を止ませる商売を始めるのですが、これ、まさに二人が大人の社会のベクトルの延長で行っている商業行為です。
これと同じことをしてきて、大人たちは環境を破壊して来た。
大人たちと違うのは、彼らが自らツケを払うことになる部分です。
つづく