ファインディング・ドリーを観ました。
障害をモチーフにした作品と言うことで高い関心があったのですが、その通り、登場人物は記憶障害の主人公を始め、復員兵を思わせる肢体欠損障害者、弱視、心身症などの問題を抱えた魚たちが治療や保護を受ける施設を舞台にした物語でした。
もちろん、物語の主人公と言うことで、ドリーは障害と反比例してサヴァン的な超常能力を持っているのですけれど、本質的に障害が改善されることはありません。
実際の記憶障害にはメモを取るなり映像を記録するなりの予備対策があるのでしょうが、魚であるドリーには文字通り手も足も出ません。
大変に考えさせられる気持ちになり、いまも消化はされていません。
元々私は、障害や不登校、DV被害者などの人々の力になりたくて武術を活用しています。来月行われる肉文祭もその一つです。
以前に行った表演では、発展途上国に小学校を建てるための基金集めをいたしました。
自分一人が強いの弱いの、勝つの負けるのの武術をしている覚えはありません。なにがしかの形で、どこかで必要としている誰かのところに届く手として用いないと、意味がないと思っています。
私は偏屈で隠者を僭称しているのですが、自助努力をする人と世界を善くするための活動をしている人とだけ現在はお付き合いをしています。
それ以外の、ただの消費社会で無数に浪費される物としての武術や人間を求めている方とは積極的にお付き合いしていません。
必要でないのなら、他を当たっていただいた方がお互いのためだと思っています。
権力が欲しいだけの先生や依存をしたいだけの人が近づいてきたときも距離を取らせていただいています。
障害と言うハンディキャップを持ったことで、生まれながらに克己を必要としている人たちのために力となることの方が、私には優先課題です。
言い方に大変注意を払う必要のある話題なのですが、私がこう思っているのには経緯があります。
元々、仲の良かった友人や女性が、のちに障害があると診断されるケースが非常に多かったのです。
私は元ボディガードという職業をしていましたが、そのような職に就く時には精神障害や依存症などを抱えていないという診断書が必要になります。
私は転職なども含めて三度ほど会社を移ったのですが、そのたびにこの診断書をしつらえました。
その中で一度、医師に「こんなのうつ病だって言われたらおしまいだよきょうび」と言われたことがありました。
いまは分かりませんが、そのころはクリニックにかかったが最後、なんらかの診断名を付けられて帰される風習があったようでした。
同じような経緯で、私自身はパスしましたが、友人の中には健康診断などで発達障害や高機能自閉症が発見された人たちがいました。
また、糖尿から弱視になり、白杖生活に至った同僚もいました。
補足した犯行者も、精神に問題を抱えているケースも多々ありました。任意でなのですが、危険物などが無いよう所持品の確認をした時に、大量の薬物が出てくることなどもありました。
犯罪を犯した人も含めて、彼らが望むなら力を貸したいと強く思っていまにいたります。
どれだけ当人が望んでも、手の届くところに方法が無ければどうしようもなく、私はその方法を伝えるのが役割の立場にあるからです。
魚であるドリーは努力はしません。
それどころか、ドリーは自分が問題を抱えていることを脇に置いて、勝手なことばかりして周囲に迷惑を掛けたり悪態をついたりとしつづけます。
その対象となるのは、彼女に力を貸す人々(魚)ばかりです。
これは非常に難しいことです。
実際に彼ら、彼女は自分が障害があると分かっていても、トラブルが起きたときには自分のせいだとはまず思いません。
相手を罵り、バカにし、ウソでだまして利用しようとします。
非常に残念なのですが、私の目にしているかぎりは大概がそうでした。
これではもちろん、彼らの側に付くことは出来ません。不正に力を貸すことになってしまうからです。
ひっきょう、克己心の強い人にしか力を貸せなくなります。
ただ難しいのは、そういう人が非常に少ない。
ドリーが後先考えずにわがままをして、世話を観てくれてる小さな子供のニモを死なせかけたように、彼女たちは身内への攻撃をとどめることがありません。
対話を通して理解を深めようとしても、それが成立しないケースが非常に多くあります。
努力で成功した経験が少ないために、自己を克服する努力をするよりも、ウソをついてうわべをごまかす方が効率的であると学んできてしまっているようです。
先日も一名、そのような物を禁足処分とせざるを得ませんでした。
もっとも手に届きやすい形で素晴らしい物を差し伸べられたのに、自ら贈り物を踏みつぶして高笑いをするようなことをしていたため、もう対応が不可能となりました。
とても悲しいことです。
どれだけ周囲のサポートがあっても、安易に流れて自分を甘やかすことに熱心になってしまうと、結局はより悪い方にしか進めない。
師と弟子の在り方を表す言葉として「水辺に導くのは牛方の仕事、水を飲むのは牛の仕事」という言葉がありますが、結局最後には自分がすべてを決めるのです。
ドリーの物語は純粋に幸運によって一人の被害者も出ず、幸せな形で終わりました。
同じく障害を抱えた人をモチーフにした映画「X-MEN アポカリプス」は、その運命と向き合う姿勢が描かれた作品でした。
ある登場人物は努力の果てに作った幸せを不運によって失ったとき、天に向かって叫びます。
「これで満足なのか!」
そうして神に怒りをぶつけた後、「これが俺の人生か……これが俺の人生なのか……」と泣き崩れます。
またある人物は「これが運命か」とつぶやいて世を去ります。
ある者は窮地において神への祈りを続けます。
それぞれの運命への姿勢を見せた後、主要人物の一人が、もしまた運命が敵になったらどうする、と問いかけられます。
その答えは「相手を不運に思う」という、強い戦いの意思でした。
どのような運命が訪れても、最後にそれを引き受けなければいけないのは自分自身であり、どのように引き受けるかを選ぶのは自分の意思です。
私たちはライフスタイルとしてのカンフーと言う言葉で表現をし続けて来ましたが、それには、どのように過酷な人生にあるとしても、自分で自分の生き方は選べると言う意思に基づいています。
それこそが、私たちの伝統武術の中核にある、老荘や少林の思想だからです。
↧
ドリーたちについて
↧