昨年観た映画「ブラック・パンサー ワカンダ・フォーエバー」は、アメリカの帝国主義、白人たちの問題について正面から語っているという非常に珍しいエンターテインメント・ビッグ・バジェット作品でした。
前作の「ブラック・パンサー」で語られていたことが、今回は具体的に表現されているのです。
更には今回、スペイン人によって国を奪われた黄色人種の問題までもが描かれていました。
今回のお話では、それらアフリカの黒人種と、黄色人種が、共に共闘して白人種の世界と戦う、という物ではありません。
両者が戦うことになるお話です。
彼らと白人種との対比としては、科学技術に裏打ちされた文明と言う物が活用されます。
ブラック・パンサーの黒人勢力はすでに白人文明に優る科学を所有しているのですが、その分、すでに文化に対する距離が離れ始めている、というように描かれているのです。
もちろん、白人種のように文化よりも合理性を優先するには至っていません。
彼女たちは敵と戦うための兵器として、最新の便利な物よりも槍を持つようにと自分たちを戒めるというシーンがあります。
これはあの、スター・ウォーズでジェダイの騎士がライトセーバーをスタータスとしており、銃などと言う野蛮な武器は軽視している、というシークエンスから来ているものでしょう。
対して、彼等と戦うことになるアメリカ原住民の黄色人種のチームはと言うと、もっと文化の方に寄っているのです。
ブラック・パンサー・チームがとはいえ最新の科学を裏に持ちつつ槍で戦っているのに対して、インディオたちはコシミノ一丁くらいの感じです。
さらには、明らかに有利に戦える戦況に至っても、仲間には手を出させずに一対一の決闘を選択します。
簡潔に言うなら、より高潔なんですね。
人々も偉大な王に直接通りすがりに挨拶をし、神であると目される王も又、国民たちに敬意を示して礼を返します。
私の目には、明らかに彼らの方が優れた民族性を持っているように見えました。
それと対するように、ブラック・パンサーの国、ワカンダは政情不安で権力闘争が続いており、またブラック・パンサーを継ぐ少女も、明らかに間違った悪の感情に引き込まれて、過ちとして黄色人種たちと戦うという話になっています。
最終的には、賢明で寛大なインディオの王は戦った後もワカンダに公正な態度を貫き、ブラック・パンサーは自らの悪の感情から立ち直るという姿が描かれています。
これこそまさに、利益が精神性を遥かに追い越すと言うことの危険性を意味しているのではないでしょうか。
私たちがいまだに耐用年数が尽きた古い武術を大切にしているのはここに通じます。
強弱や勝敗ではなく、精神を学んで懸命になるために行っているのです。
この課題は、いまの世界情勢において広く多くの国に求められている物ではないでしょうか。