前回、シン・仮面ライダーの結末までに関してネタバレで書いてしまいました。
今回もそこから始めますので、ネタバレお断りの方は退避ください。
前回書いた最終決戦の決着直後、1号ライダー本郷猛は負傷によって死亡します。
しかし、彼のプラーナ(この作中では単にエネルギーとしての気ではなくて魂のような物とされています)はライダーの仮面に宿って、それを被った2号のブレインとして二人で引き続き世界の平和のために戦ってゆくことなる、というところで映画は終わります。
これ、原作のラストで本郷猛が脳みそだけで生き残り、やはりショッカーを倒すための生体コンピューターのようになったことの現代解釈であろうかと思われます。
と、そこだけでまとめてしまってはいけないのは、これは0号ライダーによる欠陥のある人類救済計画に彼が乗っ取ったということになっている部分です。
地獄だ、と言われたその状態を、本郷猛は「気持ちいい……」と受け入れて過ごしているのですね。
これ、エブエブで生命の居ない世界で禅的な状態に至ったエブリンが言っていた台詞ですよ。
彼は、精神的に未熟な人間だったら地獄であるはずの状態を幸せな状態として受け入れられる精神レベルに達した。
これ、プラーナの修業であるヨガやチベット密教では、第四のチャクラ以上のレベルの人間に可能な状態だとされています。
生前そこまで魂が修行をされていないと、ただ人と比べるだけで何も得られない修羅界やいくら食べても充たされることのない餓鬼道、何一つ悟性を得ることなくブタのように生きるしかない畜生道、そして作中で語られた地獄に堕ちるとされています。
つまり彼は、行者として人生を昇華させたと言うことです。
その彼をメンターとして彼の肉体がわりに現世で戦う「肉」の役割を引き継いだ2号ライダーこと一文字隼人の口癖は「スッキリ」です。
いま一つ何か違和感を感じる時には「スッキリしない」。正しい方向に向かったときには「スッキリだ」と言うように、スッキリしてるかどうかが価値基準なんですね。
これ、私には非常によく分かります。
修行で元神、本能的な感覚を発達させると、実際にこういう感覚になります。
何か自分の本能が間違いを感じているときにはスッキリしない。正しいと感じているときにはスッキリとします。
このスッキリは、プラーナの活性化のためでしょう。
彼等ライダーと同じ、作中に出てくる怪人たちはプラーナが活性化されていて、常時多幸感が湧き出る症状になっているとされています。
そのナチュラル・ハイの中で自分を絶望から救う欲求のままに動いているのが怪人たちです。
しかし、この怪人たちは精神的に出来ていない。
未熟だからこそ、他人を抑圧したり他人と自分を比べたり、自分も含めた他人に執着することや決まりに執着することしか自分を救う欲求を持つことが出来ず、他人に迷惑をかけて殺されてしまう。
キャンベル教授の言う、なりそこないのカルトのシャーマンなんですよ。
前の記事でも鬼滅の刃を思わせると書きましたが、これ、鬼滅の刃の鬼に似た構造です。
私はずっと彼らのことを怪人と書いてきましたけど、正式にはこの映画では彼らは「オーグ」と呼ばれています。
つまり、鬼です。
鬼と言えば、地獄。そう、彼らは地獄に堕ちた人間たちだと解釈が出来るのです。
完全に東洋の身体哲学、ヨガの価値観で構成された映画なんですね、これ。
つづく