昔、ある中国人の先生が「なぜ我こそは外家拳なり」と言う物は居ないのだろうと疑問を呈していました。
そもそもが、内家拳優位説というのは孫禄堂先生のグループが言い出したというかでっちあげた凡百の持説優位コマーシャルにすぎません。
明国時代の唐豪先生の研究の段階で内家拳道教由来説が嘘であることなどみんなとっくに知っているはずで、結局は少林拳の新派であることなど判明しているのに、いまだに歴史的正当性とは無関係に内家拳幻想が続いています。
太極拳は少林拳であることはもう陳家溝の歴史が証明していますし、内家拳幻想の初歩を作ったのは当時の知識人だった武禹襄先生であることは知られています。
形意拳はそもそもが心意拳であり、まんまただの少林拳であることもいまならみんな知っていますし。
八卦掌には諸説あり由来の定説は無いようですが、有名団体の偉い先生は通背拳類であろうと言っており、私もこれには共感しています。
内家拳などというものは宣伝用の幻想の中にしか存在していません。
しかし、いまだにそのブランド意識が続いているようです。これはどうしたことでしょう。
あるいは戦闘法の共通点で区分したのだと言う先生もいます。
その中で一番レベルが低いのは「交差法を用いるのが内家拳だ」という人達でしょうが、それこそが少林拳の得意な練梢帯打です。
「少林拳は先の先を取り、内家拳は後の先を取る」と日本剣術的に詠んだ先生の発言は上手いと言っても良いかもしれません。
しかし、残念なことに形意拳類は普通に先制して正面突破をしてゆきます。
なんとなく内容が高級な感じがする、と言うあたりがブランド意識の現実なのではないでしょうか。
もちろんこれも大嘘で、現在一般に行われている太極拳にはまったく高級な部分どころか中身さえ見られませんし、八卦掌も即物的で乱暴ないわゆる「毒手」で知られています。
高級技法主体説で最も支持されているのは、少林拳は外形を使い、内家拳は内勁を使うというものかもしれません。
が、実際のところは少林拳も内勁を使いますし、練習の大部分は気功です。
だって、禅宗の修業ですからそれは瞑想して気功をしますよ。
しかし、この外形という発想には一部面白いところがあります。
空手のように、西洋体育的な力だけで行う物は恐らく中国武術にはありません。
ですので、外形=蛮力という連想は間違いです。
多くの中国武術では、中身の力を伝授されたらそれを用いるための練功を各自が行う物で、体格や資質の違う人とは必然拳風が変わります。
外見はそうして変わります。ただし中身のシステムは同じです。
いつもいうように、外見だけ真似しても意味がない。
しかし、もしかしたら通背拳類ではこの外見が重要かもしれません。
あるいはその範疇の長拳類でも。
これらはパワーではなく、速度や柔軟性が威力に直結しています。
ですので、正しい姿勢を教わってそれをひたすら突き詰めれば、フツーに強い功に繋がるのではないかと思います。
日本でも有名な通背拳の老師が若い頃に同じ拳種の青年と勝負をしたときの話をしていたことがあります。
その結果についてその老師はこう表現されました。
「私の方が速かった」
この拳種では、速度が強さに直結しているところがあると感じています。
ライト級のボクサーとヘヴィ級のボクサーが対戦して、速度とパワーは別のお話、というようなことではないのです。
速度がそのまま威力を発揮する動きが完成されて継承されています。
だからこそ「実戦なら通背」というような言葉もあるのでしょう。
遅くて強い拳法は絶対に、中身を教わっていないと勝負ができません。
しかし、速さをストロング・ポイントとして完成された拳法は、教わったが最後、ひたすら自分で練功して精度を高めれば、確実に一定のレベルに達するのではないでしょうか。
だとしたら、その強さは形を正しく教われば向上につなげられるように思います。
そう考えると、これこそが外形の力であり、その力はつまり、正しく外形を体得さえすれば、個人でいつまででも高め続けられる素晴らしい宝ではありえないでしょうか。
それは物凄い人類の至宝だと思われるのです。