今回はアモールについてお話すると予告しました。
これは、相手の人格への愛だと言うことで、近代以前の西洋には存在しえなかった物だと言います。
つまり、一定の文化状態が無ければ、人格の形成とは難しい物です。
少なくとも、一般化はしない。
私などは現代日本社会でも充分一般化していないと思いますが、人間が人格を確立すると言うのは極めて稀な物です。
そして、その稀なことが是とされたのは近代社会に至ってからです。
市民としての自覚が社会と同一化されるというプロセスによって、初めてこの考えは一般化される。少なくとも文字の上では。
しかし、それ以前の主に聖書宗教の文化圏での宗教的権威によって社会が封建的に支配されていた時代においては、そういった人格の独立、拡散は求められていませんでした。
求められていたのは従属です。
ですので、人格的に独立した人間が良い、などと言うことは無かった。そのような人間は、反社会的人格であり、魔女や異端として糾弾されることさえあった。
個を持っていて、他人と違うというのは批判されるべきことだったのですね。それが前近代的姿勢です。
人間に求められるのは、階級(カースト)における機能でした。
ですので、彼等のエロスと言えば、即情欲であり、本能的な性愛を意味していると言って良いでしょう。
そして、非性愛的な愛がアガペーと単純に分化も可能です。
しかし、アジア圏においてはそうとも限りませんでした。
いえ、もちろん一般的には砂漠宗教圏とは変わらなかったことでしょう。
ですが私たち行者の視点からすると、アジアには性愛で雁が飛ぶとき、すなわち悟りに至るという思想がありました。
これは、果たしてエロスでしょうか、それともアガペーでしょうか。
性愛を扱っているのでエロスでもあり様な気がしますが、違うような気もすることでしょう。
ここで、行の思想における世界認識の原点に帰ります。
アジアの行の文化においては、すべてに世界の根源的な力が宿っていると考えました。
仏教においては仏性や法であり、道教においては気と呼ばれます。
これらは天地の意であり、世界の真実そのものです。
砂漠宗教でも、神話の時代にはそのように考えられていたと言います。
しかし、宗教化した段階で権威の序列が作られて、神を頂点として、下位の存在があるという階級化の考え方が一般化しました。
荘子の斉物論のような「美女も黄金も犬のクソも真理としては価値なんてみんな同じ」というような考え方ではないのですね。
こうして砂漠宗教圏では行によって人が向上し、内なる雁が飛び立つという考え方は忘れられて行ったと言います。
アジアにおいては逆で、あらゆる手段によって、解脱、悟りに至る方法が研究されました。
文字を書く、華を活ける、お茶を淹れる、踊りをする、馬に乗る、音楽を奏でる。このようなことを中国では〇〇道という言い方で表現しました。ゆえに、それらを総称して道教と言います。
これらの中に、性愛で悟りに至る道があります。
タントラや房中術と呼ばれる物です。
つづく