長勁と短勁の区別について考えた時に、とても大きなヒントになったのが陳式太極拳でした。
以前に陳式太極拳の新架を見た時に、非常に勁が短いと感じたのです。
その派では雷のように迅速に発勁するということを言っているのですが、それはつまり一瞬の閃くような発勁ということです。
私の目にはそれは、まるで南派短拳のように見えました。
そういえば、元々内家拳というのは南派短拳の一派だったという話があります。
これはまさにその通りの印象でした。
陳式太極拳と言えば、確かに発勁が短く、そのほかの時は勁が出ていないと言う見方をしても正しいと思います。
なぜなら、放鬆をしているからです。
この放鬆をしているからこそ推手が出来ます。
もし待機状態から勁を出しっぱなしにしていては相手の力をそのまま排打してしまって化するという用法にはなりません。
実は、この部分に実はすごく難しい言語上の境界が存在している。
放鬆状態とは言え動いている訳だけど、ではその動きが拙力で成り立っているのか? という問題があるからだ。
おそらく、ここは巧手はほっそーーーーいうっすーーーーーーーい勁で動かしているけれど、そうでない人は実に微弱な拙力で動かしていると言えるのだろうと思う。
この、やる人の功によってどちらでも行う放鬆の部分がことを難解にしていたのだと思われるのです。
放鬆と発勁が入れ替わる様が攻防の変化であり、体用の変化であり、陰陽の変化であるので太極拳だということな訳ですが、これ、用は虚と実の入れ替わりなので、その虚と実が何なのかは問いから取り外すことが可能です。
どちらも拙力なのは単なる初心者だとしても、発するときは勁だが放鬆時は拙力だ、ということは充分にありえる。
そして、この放鬆と言う状態から発勁へのスイッチを取って見るならば、勁を発した時に勢いが生じます。
その勢いで打ててしまうので、拙力で放鬆をしていても発勁がなりたつのです。
つまり、長勁と短勁の違いとは何かというなら、これは長拳のシステムと太極拳のシステムの違いだと言ってもよいでしょう。
以上が現段階での私の私論です。
つづく