最近、鉄環を使った練功をすることでいままでよりもさらに下半身の重要性を意識させられています。
重さは下半身で支えないといけないし、鉄環を投げるように使っても下半身が流されてはだめ。
確固とした下盤の土台は中国武術に必須です。
ここが、ピョンピョンスキップしながらの運動が基本となっている西洋体育との根本的な構造の違いですね。
大地に打ち込まれた杭のように、ただ一人独立しないとなりません。
この立ち力、定力を確立するために、中国武術家は初学の内からひたすら立つということを練習し続けます。
ちょうどボクサーがロープ・スキッピングを日常的な基礎トレーニングとしているのと好対称に同様の構造となりますね。
そのようにして、圧倒的に強固な下半身の構造(勁道)を作った上で、初めて中国武術は成立します。
ツラい思いをしないで楽に強くなれる、あるいはなった振りが出来るというようなオタクの印象とはまったく逆です。
そんな訳で、このようにして鍛えた結果ようやく中国武術は真価を発揮できる次第です。
この脚の力が全ての根幹だと言える訳です。
先生によってはこれを踏み込みと表現していますが、個人的には踏みしめと言った方がより誤解を招く確率が下がるようにも思います。
物心ついた時にはすでに立ち上がって歩いてきた人類にはほとんど意識する機会がありませんが、実際に追求してみると、人間は驚くほどに足を踏みしめることが出来ます。
この力が、発勁に繋がります。
そして、定力を繋いだままコントロールすることで発勁の操作が成り立ちます。
特にいま私が集中して訓練している短勁などはこの要求が非常に高い。
このことが感じられてくると、昔教わったことの意味と重要性がわかってきます。
中国武術は本当に奥が深い。
日本人は大人になると勉強をしないと言われます。
確かに、大学を卒業してサラリーマンになってしまったら、あとはもう他に何もしないような印象がありはします。
そうしてひたすら嫌な中年になって、囲いの中で甘やかされてそれしか世界を知らない世間知らずの勘違い人間になって、老害と呼ばれて消えてゆく。
ですが、こうして自ら一歩歩くごと、一秒立つごと、息をするごとに学び続ける人間の人生は全く違うことでしょう。
最後に、ある塾の先生が記した言葉を引用させていただきます。
〝ぼくは「知性」は人間のもっとも重要な徳性の一つだと考えている。ただ、多くの人が誤解しているように、知性とは頭がよいことではないし、まして偏差値が高いこと、受験学力に長けていることとはまったく関係がない。そうではなく、知性とは「世界に対する偏りのない探究心」のことだろうと思う。
それは自分の認識の偏りを反省しながら、世界の姿をあるがままと同じ比率で自分の頭の中にすべて写し取ろうとすることだ。もとより不完全な能力しか持たない人間にはどこまで行ってもその似姿は不正確なものでしかないのだけれど、真実へ一歩でも近づいていこうとする意志を「知性」と呼ぶのだと思う。〟
知性の欠落した人々の価値観などに、真実を感じられる者は決して囚われない方がいい。