私は普段電車に乗らないので知らなかったのですが、いまはもう駅のキオスクで紙の本なんてのは売ってないそうですね。
私は若い頃、よくキオスクのくるくる回るブックラックで夢枕獏や眠狂四郎、山田風太郎の新刊なんかを見つけては移動の最中に読んでいました。
あの手の活字の中には、とんでもなく下世話なポルノや読み捨てられるような推理小説なんていう物もたくさんありましたね。
そういった土壌があって、単行本化されない描き下ろし、書き捨ての小説というものが当たり前にあったものです。
80年代からずっと続いているマンガ「鎌倉ものがたり」の主人公、推理小説家の一色先生もそういう物を書いている作家の一人ですね。
そういえば昔、外国の人が日本の電車に乗った時に、本を読んでいる人が多いのに驚いたという話を聴いたことがあります。
そしてまた、公衆の面前であり、読んでいる人たちもスーツを着た紳士たちなのに、読んでいるのがポルノであることにも驚いたといいます。
これらの話を聞いたときには何も感じませんでしたが、いまはこれこそが日本そのものだということが理解できます。
これらの小説、出版社は大衆小説と分類していたと記憶しています。
いまとなっては格闘アクションの大傑作である餓狼伝シリーズも、当時の新書では背中に「バイオレンス」「エロス」と言った煽り文句が踊っていました。
これらが意味しているのが、大衆という存在です。
もう、私の時代にはとっくに使われなくなっていた言葉なのですが、戦後の時代には彼ら電車内で本を読む人々のことを「知的大衆」と呼んでいたそうです。
つまり、本を読んだり新聞を読んだりする程度の知能はあるけれども、本質的には大衆である、ということです。
では大衆とはなんでしょうか。
これはオルテガ・イ・ガセット先生の本を参考にするなら、産業革命後の世界で中間層をなすに至った労働者のことです。
何を指しているかというなら、日本語で言う「サラリーマン」のことです。
これら知的大衆という人たちが日本で出現したのは、明治になってからだと言われています。
元々、農家の次男坊や三男坊で、それまではやっかいおじになるしかなかったような人たちの生業として月給取りという身分が受け皿となりました。
やっかいおじというのは、家督を継げなかった男児のことです。
彼らは得てして、子供を持ったり妻帯したりすることも出来ずに、離れにすまって無料で雇われている小作人のようにして生涯を送りました。
それが不可能ならば他所の家の商店に奉公に出された。
これが月給取りです。
要するに、サラリーマンというのは丁稚奉公の小僧のことですよ。
そもそもはね、そういう階層の人たちでした。
それが変わったのは戦後からです。
つづく