マッドマックスの二作目に影響を受けて作られたのが北斗の拳だということは有名です。
文明レベルが退行すると、様々なことがエピック化して王や神話の世界になってゆくということはそちらでも描かれています。
また、2では前作では孤独な主人公が悲惨な人生を送るというムードだったのが一変して、子供や女性戦士、お調子者を含んだパーティを組んで活躍をしており、正統派の冒険映画になっていました。
その英雄冒険譚への変化がヒットしたことを受けて三作目ではさらにこの路線が深められて、荒廃した後に独自文明が芽吹きつつある世界でマックスが闘技場で闘うというお話になりました。
全体に空気はさらに明るくなり、もうほとんどコナン・ザ・バーバリアンがコロシアムで闘うというようなアメリカン・ファンタジーのノリになりました。
ラストの展開もびっくりするような明るさ、言い換えるなら「甘さ」です。
当時中学生だった私は心底楽しく観た物でしたが、70年代に残酷バイオレンス映画時代から見始めていた大人達には大層不評だったらしく「子供向け」とバカにされることになりました。
それから30年物月日を経て作られたのがマッドマックス怒りのデスロード(フューリー・ロード)です。
三作目が不評を買ったためにこれだけの月日が開いたのでしょうが、開いただけのことはあるすさまじい名作となっていました。
フューリー・ロードではもう、神話学をコナンのようなパルプ小説化することを辞めて、逆に純化して奇祭とすることに成功していました。
日本で言うだんじりや御柱、インドのジャガーノートのような人死にを出して生贄を捧げながら五穀豊穣、陰陽の和合による子宝の恵みを祀るという一大祭祀の模様を時間いっぱい描くと言う様式美が確立されています。
当時、前作が子供向けだったためにこの作品もあまり中身がない作品だと侮る声も多かったのですが、神話学の徒である私にはこれがどれだけ凄いことかということも分かりました。
そして、この物語が「福音書」であり、マックスが主人公の立場から「神」の位置に移行していることが解りました。
主人公は、この神から加護を受けて、その血を呑むと言う福音の儀式を経て王になる英雄、フュリオサです。
つまり、二作目の時の聖書路線を引き継いで、かつ聖書におけるジーザスの物語の後に続く聖人列伝のフェイズに入っているのですね。
今回公開された「マッドマックス フュリオサ」はこのフューリー・ロードの前日譚となります。
ですので、物語の上ではマックスはまったく関与していません。
ただ存在はしていてすれ違うという登場の仕方をします。
と、ここまでで前作までと今回の関係について書いてきました。
次回からようやくマッドマックス フュリオサについて語れます。
つづく