イモータン・ジョーとフュリオサの関係については書きましたが、イモータン・ジョーとディマンティスの関係についてはどのようなものになっているでしょう。
彼らは同じくパターナリズムの枠にくくれると言えるのですが、ディマティスには一切の威厳がありません。
彼はこの大災害で家族を失い、未来を見失い、世界になんの救いも見いだせない存在として描かれています。
そんなどこにでも居そうな絶望した弱い男に一体なぜ配下が付いてくるのでしょうか?
それは、純粋に口車です。
彼は中国の古典で言うところ「口舌の徒」なのです。
古代中国の神々の趨勢を描いた神話である封神演義では、神々どうしの大戦が終わって革命が成立した後、まずはじめに亡国で聖者とされていた儒生達が処刑されます。
その時に言われる言葉が新しい時代に「口舌の徒」は要らないということです。
口だけでなんの実業もしていない虚業家が反映していたから、旧王朝は腐敗して沢山の犠牲者が出たのだという怒りが込められているように思います。
面白いことに、この部分があるがために、中国では長いこと封神演義は儒者の側からは悪書だとされていたという話があります。
焚書坑儒の儒者から封印されてしまうなんて。
ディマンティスというのはこの儒者のやり方で配下を収めています。
何かあるとすぐに喧伝して、儀式を行う。
そうすると馬鹿な部下たちはすぐに両手を上げて祭りに乗っかって盛り上がってしまう。
要するに、パンとサーカスで言うサーカスの部分に優れた人なんです。
パンとサーカスとはつまり、ポピュリズムだということです。
イモータン・ジョーが厳格な父権の象徴であるとして、威厳のかけらもないディマンティスはキョロ充的なポピュリズムのリーダーなのです。
つまり、何も考えてないのにバカが調子に乗って変な信仰に傾倒してホワイト・ハウスを襲撃しちゃった、みたいなことの象徴であるように私には見えました。トランプです。
だから中身は何にもない。
その場その場で適当に盛り上がるだろうことを言って手下の気をそらして誘導しているだけで、本当に自分が彼らを食わせられるとも食わせたところでその先に何があるとも思っておらずに、延々その場しのぎをして疲れてうとんでいるという虚無的な軽躁のキャラクターです。
イモータン・ジョーは、息子の狂戦士たちを養い、永遠の生命がある地であるバルハラ信仰を信じ込ませている王ですので、ある意味で北欧神話の主神オーディンであると言えます。
だとすると、ディマンティスはなんの意味もヴィジョンもないのにただ眼の前の秩序を壊すだけのトリックスターの神であるロキなんですね。
演じているのがマイティ・ソーなのにロキ。
だから彼は犬を連れているのです。
そして世界樹の根にまつわる最後を遂げます。
儒教的な形式主義のことを、スノビズムと言います。
中身がなくても形式を踏んでいると社会化は始まります。
しかし、それだけをしているとどうなるのか。
ジョーは作り上げた王国を後継者に簒奪されました。織田信長のようにですね。
彼にはヴィジョンがあったから、作ったものが改良されてその先には救済を見ることができた。
ですが、なにもない空っぽなディマンティスは、養分にされるしかなかったのですね。
彼から使えるものは何も見いだせない。
つづく