通過儀礼をまともにこなせば、規格化された社会人となります。
日本社会で言えばサラリーマンでしょう。
これをこなせず通過儀礼の過程にとどまればカルトのシャーマンになります。
お役人や学校の先生ですね。
まぁ、どちらにしても面白いという訳ではありません。
キャンベル神話学における一番面白い、通過儀礼の例外者は、英雄です。
英雄とはなにか。
通過儀礼で、行って帰った者のことです。
どういう意味でしょうか。
それはつまり、通過儀礼を経たのに、通過儀礼後の状態に変化しておらず、前の状態に戻った者のことです。
これが「行きて帰りし」ということの意味です。
通過儀礼を通過するのでもなくそこにとどまるのでもなく、行って通ってまた戻って来ちゃった。
これがインモータル、すなわち超人です。
ただでさえ強いフリーザがデカくなって強くなって、ようやく倒したと思ったらもう一段階変化して今度は小さくなっちゃった、もうだめだ、小さくて強いとか絶対一番強いやつじゃん、みたいな。違うか。
この、外圧と教育から形式主義によって方にはめられても、本来の自分を失わずにそれをパワーアップさせた存在、飲まれたかった存在が英雄なんですね。
フュリオサでいうと外圧はイモータン・ジョー、形式主義はディマンティスです。
だから物語の最後で、彼女はディマンティスと形式主義の落とし所に関する問答をしてそれを乗り越えるのです。
このようにして、英雄とは外の力を吸収して自分のまま強さに変えた存在です。
こうなるとこの人は既存の世界から得た力で既存の世界を破壊して新しい世界を作ります。
このことを、聖書をはじめとした伝説ではいくつかの祝福や奇跡を経たという形で表現しています。
バチカンでは、生涯に二度以上の奇跡を経た人を聖人として認定するそうですが、フュリオサも二度の奇跡を経ています。
一つは片腕を切断して機械の腕を手に入れたこと。もう一つはこの世界でのキリストに当たるマックスの血を得て死から蘇ったことです。
これらによって、彼女はその身に常ならざる者の証の聖痕を得ています。
それは単にこの二度の死を乗り越えたという意味ではありません。
これまで書いてきたように、彼女は今回の映画の中でも二度、黄泉の国に飲み込まれかけて、一度はそこから自力で這い上がって居ます。
このように彼女は、生者の世界と使者の世界を行き来している存在なのです。
生者の世界を支配しているのはイモータン・ジョーなのですが、彼は不毛の地の王であり、次の豊穣、新しい生命の誕生に世を導くことができません。
滅びゆく、古い世界の王だからですね。
対して、ディマンティスは死の王だと言えるでしょう。
彼は自分が死にゆくことをわかっていて、その軌跡をたどっているだけだからです。
何一つ生産的な、生の世界に属することをしていない。
フュリオサはこのように象徴的な二人の王の間を行き来して、そして荒れ地に自らの血を持って、シャーマンに命を与える存在であり、カルトによって神像として祭り上げられたマックスから選ばれてその血を与えられました。
これが彼女が新しい世界の王となり、かつそこが生命に満ちた豊穣の地となりえるだろうという希望につながるゆえんとなります。