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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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套路と理解

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 套路を打ってみせると、よく学生さんからクレームが来ます。
「前にやったのと違う」というのです。
 しかし、もちろんそんなことはありません。
 どこが違うんだ? と首を捻るのですが、これ、理解の度合いの問題でした。
 私からすれば、まったく本質は同じなのですけれど、本質を理解していないと表層しか見えないので違うことのように受け取れてしまうようなのです。
 まったく同じ套路でも、速くやったり遅くやったり、時には止まって行ったり早く行ったり。
 あるいは、低架式を強調したり跳躍を強調したりしますけども、本質は全部同じです。
 では本質は何かというと、禅でありタオです。
 我々の考えで言うなら、人間とは筒のような物であり、外界の陰陽の流れ(日が昇り、沈み、季節が流れる)が中を通ってゆく存在です。
 人間は水穀の気と言って、季節ごとの食べ物を身体に取り入れてそれで肉体を形成して、季節ごとの仕様にしてゆきます。
 なので、冬で脂がのっても夏で皮膚が焼けても、自分は自分として同じです。細胞は入れ替わっていますが、それも含めて自分です。
 これは套路も同じことです。
 しかし、それが見えていない人たちは、皮膚が黒いから別人だとか髪が伸びたから誰だか分からなくなったというようなことを言います。
 うわべばかり気にして本質が見えていない。
 一体いままで何を稽古してきたのか。
 ガワの中身が見えてきたとき、自分の内側に働くタオが理解できてきます。
 よく、中国武術を理解していない人が套路を否定しますが、それはこれとまったく同じ問題です。
 流儀武術を語るには、一定の段階まで理解が進まないといけません。それが何をしている物なのか見えてこないからです。
 ちょっとサッカーや野球をかじったというようなこととはまったく意味が違うのです。
 そういう現代式の物の考え方とはまったく違う思想行為です。
 お坊さんはお経を唱えますがシンガーではありませんし、ストリーキングは陸上競技ではありません。
 なんでもかんでもスポーツや競技に落とし込んで理解しようとすると、とんでもない間違いを犯します。セックスはスポーツではないと思いますし、人間関係はポイントゲームではないですし、個人的には仕事を競技だと思ってる人には迷惑だなあと感じます。
 けど世の中には、安易な方に物事をみなすという風潮が強くあります。
 套路は用法の練習ではありません。
 それは瞑想であり、思想行為です。
 その手がかりとして用勁を学ぶので、勁を理解していない人にはこれは分からないことでしょう。
 様々な姿勢での勁の連環を通して練ってゆくのが套路です。
 勁と瞑想の行を把握したのちに「套路は要らぬ」というのは禅的には正しいと思います。
 しかし、そこまでいかない小坊主が「禅も読経も悟りには要らぬ」などと言いだしたら……みんな、ブルース・リーの影響を受けすぎだと思います。
 分かっていない人ほど、自己評価が高い世の中のように思います。
 套路は硬直した形式ではありません。
 そう感じるのなら、硬直している自分自身を見つけるべきでしょう。
 套路は自由への道です。
 川の大筋は決まっていても、そこに流れている水はいつも違っています。
 それがタオです。
 自我ではなくタオを見つけたとき、本当の価値が分かります。


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