先日来てくれた新しい方に、散手をご紹介しました。
解擒、扣打、一発連環などの要素が複合的に入った戦略的な広がりのある面白い物です。
その面白さを楽しんでくれたので言いました。
「でも、これに集中しないでくださいね」
どれだけ面白くても、それはあくまで戦術の研究、識神の領域のことに過ぎません。
そこで満たされるのはエゴの悦びです。
それは私たちの本旨ではないのです。
我々が行っているのは、自然と自分との間のことであり、人と人の間の行為ではありません。
タオでは全てにタオがあるといい、仏法では全ての中に仏があるといいます。
これは、他人に関しても同じです。
相手を個人として見るのではなく、外界の一部としてだけ観ます。
そこにいかなる私的な関係も結びません。
それによってのみ、感じられる真実があります。
おそらく。
タオイズムでは師弟関係を否定しています。師はたまたま伝を届けただけに過ぎず、そこに優劣は存在しないのです。
優劣も私的な関係も情緒ももたらさないので、怨も恩もありません。
回族拳法では、師に頭を下げると怒られます。
神以外、すべての人は平等であるという信念があるからです。
道教系、仏教系、回教系、どの武術も同じことを言っています。人間関係を見るのではなく、ただ真実だけを観察し、求めるのです。
それぞれが相手の中に働いている世界の真理を感じるのみです。
怨も恩もないのですから彼我の優劣に囚われていてもしかたありません。そこにこだわる技撃はエゴの拡張に通じます。
中国思想では、古くから戦いで勝ちを得る方法は知られています。
「兵は詭道なり」孫子の教えです。要約すれば、戦の勝敗はだまし討ちである、ということでしょうか。
本物の武術家は、必ず暗器を学びます。一目で携帯を悟られない隠し武器です。私もいくつかやりました。実際の戦いの勝敗を問うならそれでよいのです。
しかし、それは決して中国武術の本道ではありません。
扱いづらい長い刀をわざわざ左右の手に一振りづつ以て振り回したり、3メートルもあるような大鎗を使った練習を肝要とします。
それが世界に働いているタオを感じさせるものだからです。
我々の学んでいる武術の本道は世界に働く力を感じ、それが自分の内側にも働いていることを感じていくうちに、自我は薄れてゆきます。
自分もまた世界の一部であるというを理解してゆくのです。
目先の勝敗に囚われていては、どんどん本分を見失い、やがて魔境に落ちます。
技撃への拘泥は魔境への入り口だと考えてよいでしょう。
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技撃の誘惑
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